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「もう神の国は来ているのに」マタイ福音書連講[074]

聖 書:マタイ12章22〜30節


ある安息日の朝、ご自身が安息日の主であると宣言なさったイエスさまは、みもとに来る人々皆を癒しなさいました。その流れで悪霊に憑かれていたために、目が見えず、口も利けなくなってしまっていた人もイエスさまの御前に連れて来られたのです。イエスさまは他のすべての人たちと同じように彼も癒してくださったのです。ですからこの男の奇跡的な癒しは、決して単発的に起きた稀な出来事ではなく、その日会堂で手の萎えた人が癒されたことに始まり、次から次へとイエスさまについて来た人々のために「彼らを皆癒された」、常識的には起こり得ないことが、これでもかと言わんばかりに、すべての人に起こり続けた先に、悪霊に憑かれたこの男性まで癒されたのです。その一部始終を目撃して、群衆は驚いたのです。頷きと裏付けのある驚きです。それで彼らは声を合わせて「この人がダビデの子なのではないだろうか」と期待を表します。イエスさまのなさるみわざ、語られるおことばに触れる人々は、自ずとこのような期待に辿り着くものだ、ということをこの群衆は私たちに示しています。


「ダビデの子」とは当時のユダヤ人が、やがて神さまが自分たちを救い出してくださるメシアをダビデ王家の末裔から送ってくださる、という希望が込められた呼び名です。イエスさまがその安息日に次から次へと人々を癒しなさるのを目の当たりにして、彼らは主の救いに期待を寄せたのです。この福音書の冒頭にはマタイ自身が、イエスさまが、ダビデの子であることを示しました。この福音書が私たちに伝えようとしているメッセージ、イエスさまこそ約束された救い主である、ということに、この群衆は頷きと裏付けをもって辿り着いたと言っても良い場面。マタイはこの福音書を読む読者たちもまた、イエスさまが神さまの約束なさった救い主であられることを訴えているのです。

ところが、群衆が驚きつつ自然とダビデの子を期待しようという場面でも驚かなかった人々がいたのです。自然な応答をしなかったパリサイ人たち、彼らは群衆と同じものを目にし、耳を傾け、今目の前で悪霊に憑かれた男が癒されたのを目の当たりにして、それでも群衆が自ずと導かれる期待には辿り着かなかったのです。どうしてそうなってしまったのか。「イエスは彼らの思いを知って、言われた。」パリサイ人たちが群衆と違ってダビデの子、救い主へと近づかなかったのは、彼らの思いにそうさせる悪が潜んでいることをご覧になられたのです。以前にもイエスさまが彼らの思いをお知りになって「なぜ心の中で悪いことを考えているのですか」と迫りなさったことがあります(9章)。その日、みもとに連れて来られた悪霊憑きの男は、目が見えず、口もきけなくなっていた。見るべきものが見えず、語るべき言葉が語れない。パリサイ人たちは今、まさに同じ有り様になっています。イエスさまは彼らの思いと向き合われ、彼らを諭されます。真理が見えなくなり、神のみわざが見えず、さらに神さまの御心が見えなくなることへの戒め、それは私たちへの語り掛けでもあります。


1. 道理・真理が見えない

宗教家たちはイエスさまのみわざを見て「ベルゼブルによることだ」と断定します。しかしこれはものの道理からしてもおかしなことになっているとイエスさまは諭されます。自らの国の中で分裂が起こさせる王の矛盾、悪霊追放をベルゼブルによるものと断言してしまうことの自縄自縛。人の思いが悪に囚われるとき、ちょうど悪霊に憑かれた人が見えなくなるように、その人の知性が、特に福音についての理解が正常に機能しなくなり、その人を救いから、神の国から遠ざけるようになる、私たちは注意深く警戒しなければならないでしょう。


2. 神のみわざが見えない

そのことはすぐに次の次元に影響を及ぼします。神さまのなさるみわざが見えなくなるのです。イエスさまはわかり易く宣言をなさいます。「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(28節)。既に神さまのみわざが進められているのに、そのように見えなくなる。まるで悪霊に憑かれた男の目が見えなくなっていたように、神さまのなさっていることがそのように見えなくなってしまう。そこが群衆との大きな違いでした。この宗教家たちの有様は大いに警戒となります。神さまのみわざが見えなくなると、人は単に混乱するのではなく、ものごとが悪魔のわざに見えてくるのです。私たちはへりくだって絶えず神さまの御助けを頂きながら、神さまのみわざを見続けるお互いであり、神さまのみわざを証詞するお互いでありたいと祈るものです。


3. 神の御心が見えない

さて29〜30節に掛けて放たれている攻撃的なおことばの数々は、今彼らの目の前で起きていることを神さま目線からお話になっておられるのです。人から喜びや自由を奪う悪の勢力がこの世にはびこっている現実をイエスさまも群衆も、そして勿論宗教家たちも皆承知しています。しかし神さまの御心は、囚われている人々を一人残らず解放することです。その熱意がイエスさまのおことばに脈々と表されています。

30節で前面に表されている神さまの御心は「わたしとともに集めない者は散らしているのです」に込められて、それはご自身のものを集めるところにあります。「わたしのもとに来なさい」とすべての人をお招きになり、救い主を見出す人々を「散らして」はならない、と御心をあらわになさっているのです。その意味でもう神の国はきているのです。私たちは散らすものではなく、ともに集めるものとして歩ませて頂こうではありませんか。

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