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「みもとへの招き③ー私たちへの招き」マタイ連講[071]

総員伝道礼拝

聖 書:マタイ11章28〜30節


私たち日本人は常々休み方が上手ではないと言われて参りました。ある意味勤勉さの裏返しかもしれませんが、そのために健康を害してしまっては行き過ぎというものでしょう。ただ、何をするに致しましても私たちは人間である限り、疲れることなく何かを成し遂げることはできません。そのことも私たちは重々承知しているのです。それだけに疲れを上手に取り除くことが肝要になります。そのような現実の中にいますお互いだからこそ、今朝の聖言は殊更に私たちに響くものがあります。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

ただ、一言で「疲れた」「重荷を負っている」と言いましても、様々な次元の疲れがありますから、イエスさまがどのような意味で呼び掛けておられるのか、少し丁寧に読み取ることが肝心です。今朝はイエスさまのそのような呼び掛けから特に3つの事に心を留めて、その呼び掛けにお応えしたいと願っています。


1. 呼び掛けなさる「わたし」

第一にこの呼び掛けはイエスさまが「わたしのもとに」すべて来る人を迎えてくださる、というお招きです。そして「わたしが」休ませてあげます、とお約束してくださるお招きです。この招きはイエスさまと出会うためのお招きなのです。専門家たちはここが当時の宗教家と大きく違う、と指摘します。当時の宗教家は先輩たちから受け継いだ膨大な伝統や教訓を重んじて、それらを人々に伝えるので、私のところに来なさい、私がどうこうしよう、とは言わないのです。ある意味、彼らは正直なのです。私を頼られても私にはどうにもできない、私にあなたは救えない、私にはあなたの罪を帳消しにする権威も力もない。正直なのですが、非力なのです。それだからこそ、「わたしのもとに来なさい」とお招きになり「わたしが休ませてあげます」と断言なさるイエスさまには改めて注目をするべきなのです。

イエスさまは、人々が安心してみもとに行けるようにご自身について「わたしは心が柔和でへりくだっている」と仰せられます。柔和とは、自分よりも他の人の利益や損得を優先させる穏やかさを指します。へりくだって、とは先入観を抱くことのない単眼的な人柄を指します。そして何よりも幼子たち、弱い立場の人たちに何のわだかまりなく近づかれる方であることを表しています。「心が」そうだと言われたのは、柔和にせよへりくだりにせよ、それがイエスさまの本当のお姿であることを保証するおことばです。その「わたし」が群衆を見渡しなさり、わたしのもとに来なさい、わたしが休ませる、と招いてくださっています。


2. 「わたし」のくびき

さて、わたしのくびきを負っていきなさいと言われて、結局一つの荷物を下ろしたかと思いきや次の荷物を背負わされているように感じて、釈然としない方々もいます。私も子どもの頃教会学校でこの聖言を教わったとき、ちょっとしっくり来ないところがありました。けれども、私は大きな勘違いをしていることに気付かされるのです。何を勘違いしていたかと言えば、人には何も背負わずに生きる選択肢はない、という厳然とした事実です。

それでくびきとは何か。それは家畜が主人の荷物を運んだり力仕事をするときに、その重さや力をうまく担えるようにする農具です。くびきなしに大きな臼など引かされたら家畜は、重くて痛くて直ぐに力尽きてしまいます。しかし、くびきをつければ長く作業を続けることができます。あとは、そのくびきの出来具合です。くびきを負わされたとしても、それが質の悪いくびきであれば功を奏さない。そのことをイエスさまは例えていらっしゃるのです。群衆を見渡しなさって、なんとできの悪いくびきを背負わされて、疲れ切っている人々の多いことか。役に立たないくびきが人々を苦しめている。わたしのくびきはこの上なく負い易いので、荷を最大限に軽減するのだ、と招いておられるのです。

もちろんこれは、イエスさまご自身が身をもって私たちに与えてくださるいのちと人生そのものを例えています。イエスさまはわたしから学びなさいと招いておられます。福音を告げ知らせ、力あるみわざを数多くお示しになり、神の国に留まる喜びや平安のサンプルを経験させなさって、わたしのくびきがいかに負い易いものかを示されます。その一切の延長線上にイエスさまの十字架とよみがえりがあります。十字架の死によって私たちの罪が本当に消されることが保証され、よみがえりによって私たちは、明日を生き抜くいのちの力が注がれることが約束されました。イエスさまのくびきは十字架の形をしています。


3. たましいの安らぎ

イエスさまのくびきを負う時に約束される世界について、主は「たましいに安らぎを得ます」と言い表しなさいました。このおことば、実は旧約聖書からの引用だと言われています。エレミヤを通して神さまは、イスラエルの民に選択を迫られました。祝福が約束された道か、そうでない道か。「道の分かれ目に立って見渡せ…幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」たましいの安らぎ、とはだれにでも見出せる選択肢なのです。イエスさまは群衆を前にして再び迫りなさったのです。エレミヤの時代と同様に、今再びあなたがたに呼び掛けよう。「たましいに安らぎを得る」道を、わたしのくびきを負うように。イエスさまは聖言を通して今朝もなお私たちに呼び掛けておられます。わたしのもとに来て、わたしが負わせるくびきをとりなさい。たましいに安らぎが訪れます、と。イエスさまの御招きに応じましょう。

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