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「みもとへの招き①ー町々への呼び掛け」マタイ連講[069]

聖 書:マタイ福音書11章20〜30節


「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

この聖言に慰められてイエスさまのみもとに辿り着かれた人々は実に数多くおられることです。ただこの呼び掛けは何の前触れもなく告げられたものではなく、その直前に神への祈りが献げられ、その祈りも町々への呼び掛けに続けて献げられたものです。また町々への呼び掛けも、それまで進められてきた主イエスさまのお働きの延長線上にあります。今朝から3回に分けて、28節を目指しながらイエスさまの呼び掛けに私たちも耳を傾け、イエスさまの御心に信仰を持って応答をさせて頂きたいと祈っております。今朝は特にイエスさまが最初に呼び掛けなさった町々に私たちの目も向けましょう。


1. 先に力あるみわざが行われた町々

イエスさまが呼び掛けておられる町の名前は合わせて3つです。カペナウムはイエスさまがお住まいになられた町、ある意味他の町々と比べてもより多くの時間をイエスさまと過ごすことができた町です。ベツサイダやコラジンはカペナウムの隣町。イエスさまはこれらの町をピンポイントで責めておられるのではありません。3つの町の名前と並べるようにして、もう3つの町の名前が対照的に挙げられています。どれも旧約時代の町々の名前です。しかも旧約時代に神さまから罪深い町として責められ、断罪され、破壊された歴史を持つ町々です。旧約時代の3つの町も、イエスさまの時代の3つの町も、神さまから責められる町を象徴しているのです。

ただ旧約時代の3つの町々と、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの3つの町との間にある決定的な違いは、旧約の3つの町々はイエスさまの力あるみわざを数多く経験する恵みに与らなかったという点です。その大きな違いがあるのにも関わらず、イエスさまの時代の町々は旧約時代に滅ぼされた町々と同じ顛末を迎えようとしていることを嘆く責めなのです。神さまの恵みに与り、福音に触れる経験を、人は断じて軽んじてはならないのです。


2. 救いを見逃す町々

イエスさまの力あるわざの数々が何であったのかは既に読んで参りました。病気やからだの不自由を癒しなさり、汚れをきよめ、悪霊から解放なさり、ときにはいのちを失った者に再びいのちを与えなさることさえありました。でもイエスさまが本当のところ町々に届けようとなさったのはそう言った治療や回復、生活の改善そのものではありませんでした。それらは「力あるわざ」です。イエスさまが待ち望まれたのは、この呼び掛けで2度も3度も繰り返されていること、「悔い改め」です。あらゆる力あるみわざはすべて「悔い改め」に招くための道しるべであり、約束なのです。ガリラヤ湖畔の町々は毎日のように、悔い改めに招く数多くのみわざを目の当たりにし、自分たちで体験し、その恩恵に与ってきたのです。イエスさまは決して「悔い改め」のメッセージを隠したりはなさいませんでした。むしろ開口一番に宣言されたおことばでした。時代が浮かれた音楽を奏でても踊らされずに「悔い改め」を迫り、上辺だけの弔いの歌に涙をするのではなく、自らの罪深さと真摯に向き合うように促されたのです。

悔い改めることは決して容易なことではありませんし、人の営みとしても自然なことではありません。罪深くても、汚れていても、そのままでいることの方が楽に思われるようです。うちに秘める闇があらわになることを恐れたり、プライドや自己保身に妨げられたり、悔い改めたところで何も変わらなかったどうしよう、本当に赦されるのだろうかなどと疑心暗鬼になったり。それですからイエスさまは数多くの力あるわざを表しなさって、恐れや疑いを取り除き、不要な壁を打ち崩しなさり、恵みをもって後押しをなさって、悔い改めに招いておられるのです。そして今、それでも悔い改めない町々に、そこに住む人々に、再び迫っておられるのです。イエスさまが慈しまれる町々が、ソドムやゴモラ、ツロやシドンと同じ顛末に陥ってしまわないように、御心を露わになさって迫っておられます。その御声を今朝、私たちも耳にしております。私たちもまた問い掛けられています。悔い改めるように。


3. さばきの日に備える町々

さて、悔い改めの先にあるものは「さばきの日」です。さばきの日とはいかにも厳粛な響きが致します。そして確かにそのような側面があります。その土台にありますのは世の終わりという締め括りです。「この時代」(16節)私たちが日常を歩んでいる世界が終焉を迎えることを意味します。そのさばきの日に「悔い改めた」人々が待ち受けるさばきは二つだと理解することができます。一つには私たちが悔い改めた一切の罪や汚れ、悪や闇がすべて消されていることを確認することができます。それから今ひとつには、さばきの日に、私たちの歩んで来た正しい歩みと行いの一つ一つが数え上げられて、漏れることなく報われるのです。さばきの日に至るまで私たちが結び続ける実は一つも地に落ちることなく数えられ、イエスさまは「わたしがあなたがたを休ませてあげます」「たましいに安らぎを得ます」とお約束くださるのです。


 新しい一週の歩みを私たちは踏み出しますが、イエスさまのお招きに信仰をもって応答して歩み出しましょう。主の力あるみわざの数々を思い起こし、促されて、励ましを受けて、悔い改めの実を結びながら、イエスさまの正しさを信頼し、イエスさまの恵みを期待し前進を続けましょう。実りの豊かな歩みとなりますよう、お祈り致します。

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