「みもとへの招き②ー御父への祈り」マタイ連講[070]
聖 書:マタイ11章25〜30節
今朝は教団で定められている謝恩日聖日礼拝に当たります。長年にわたり伝道者として教会に仕えて来られた先生方に、神さまからの祝福とお報酬が豊かでありますようにお祈り致します。
さて、イエスさまは思い立ったように「すべて疲れた人、重荷を負っている人」をみもとに招かれたのではありませんでした。まずはイエスさまが福音を告げ知らせなさった町々を見渡して呼び掛けなさいました。その呼び掛けに続いて、二つ目の呼び掛け―神さまに対する呼び掛け―が記されているのが今朝読み始めました25節からの聖言です。このお祈りは町々への呼び掛けと密接に結びついております。私たちの聖書では「そのとき、イエスはこう言われた」と翻訳されていますが、ここを直訳すると「そのとき、イエスはこう応えなさった」となっています。この祈りは町々を見渡して心に溢れる御思いの全てに応答なさるように祈られたのです。イエスさまは悔い改めず滅びへと向かう町々をご覧になって、今一度「すべて疲れた人、重荷を負っている人」と呼び掛けなさる前に、天を仰がれた。このイエスさまのお姿を心に止めるように、マタイの筆を通して神さまは私たちに語り掛けておられるのです。
しかもイエスさまは、その御父を讃えておられます。「ほめたたえます」というおことばは、感謝を告白する、という意味だと言われています。それで神さまが「これらのこと」を「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と感謝しておられるのです。。「これらのこと」とはこれまでイエスさまが告げ知らせてきた福音のことだと考えるのが自然だと思われます。天の御国が近づいている、すでに到来している。悔い改めて、新しい生き方を始めよう。実りのある歩みをしよう。神さまの公正な審判を期待して、希望を持って人生を生き抜こう。「これらのこと」に含まれる福音です。この祈りに込められている真理に耳を傾けましょう。
1. あらゆる人々に届けられる福音
さて、「幼子たちに現してくださいました」はそれほど悩まずに受け入れることができるかもしれませんが、「知恵ある者や賢い者には隠して」というのが気掛かりになります。知恵ある者や賢い者は神の国では歓迎されないのでしょうか。その知恵や賢さのために、傲慢になったり、頑なになったりする人々を指して、彼らから福音を隠しなさったのでしょうか。確かに真理の一片はあります。人類最初の罪も思えば知ることに対する野心にそそのかされたものでした。しかしイエスさまはここで、神様がそのように知恵を得て傲慢になった者たちを神の国から締め出しなさった、といってほめたたえなさっているのではありません。賢い人々とは、勉強を修め、経験を積み重ね、成長を遂げ、成熟した高みに到達した人々です。他方幼子たちとはまさに小さな子どもたちで、まだまだこれから成長をしなければならない、成熟した高みとは対称的に未熟な低みに甘んじているぼくたち、私たちです。
それでもしも父なる神さまが福音を、成熟した高みに到達した人々にしか分からないように現しなさったとしたらならば、福音を受け入れられる人々は、ごく一部の高みにいる人々に限られてしまいます。ところが神さまはそうなさらずに、「これらのこと」を未熟な低みにいる幼子たちに目掛けて現してくださったのです。それで神の国の福音は、幼子たちを筆頭に、あらゆる成長の段階にある人々に行き渡り、言うまでもなく成熟の頂点に達した人々もいつだって深淵な福音に耳を傾けることができるという塩梅なのです。そのような父なる神さまの叡智を、イエスさまは伝道をなさりながらご覧になられたのです。
2. 福音を現してくださる父なる神
そしてイエスさまは続けて「これはみこころにかなったことでした」と言い添えなさったのです。天地の主であられる父なる神さまは、ご自身の御心を現しなさることを善しとされる方です。ご自身のお考えを隠そうというお方ではありません。旧約聖書には神さまがご自身のお考えやご計画を預言者たち、王たち、祭司たちを通してご自身の民に現そうとなさる場面があふれています。「これはみこころにかなったことでした」とは、福音を幼子たちに現すご計画も、その実際も、そしてその結果の一切も含めて神さまの御心の想定の枠の中に収まっていることをイエスさまは「ほめたたえ」なさったのです。このことを確信なさってイエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人」をお招きになられたのです。
3. 父なる神と一つであられるイエスさま
さて、27節からの祈りは群衆に聞こえるように献げられた祈りです。ご自身と天の父なる神さまとが如何に一つであられるかを確認なさった祈りです。かつてイエスさまが洗礼を受けられたときに、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と御声がしましたが、今やイエスさまはお応えになるかのように、父なる神さまとご自身とが他に類のない次元で互いのすべてを知っているとお示しになられたのです。ヨハネ福音書には、この祈りの意味が深められるおことばがあります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」弟子たちにご自身が御父への唯一の道であられることを明かされた主は、ここでは群衆に同じ真理を明かされたのです。その上で「わたしのもとに来なさい」と招かれているのです。私たちもイエスさまのみもとに行き、イエスさまの仰がれた天地の主を私たちも仰がせて頂きましょう。
Comments