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「まことの礼拝」マタイ連講[003]

聖 書:マタイ2章1〜12節


クリスマスの時期にはこの出来事を通して救い主イエスさまに導かれていく人々の様子を追うことが多いように思います。とても大切なメッセージです。ただ、今朝はマタイ福音書を学ぶ目的でこの箇所をお読みしていますから、もう少し出来事の全体に目を配りたいと思います。私たち読者は「星に導かれる」という不思議な現象に関心が向くかもしれませんが、マタイはそれについては一言も説明してくれません。まるで日常のありふれた光景であるかのように出来事を記録しています。

しかしマタイはイエスさまの誕生の出来事について、瑣末な色付けをしたのかと言えば決してそうではありません。何故ならば、マタイが懇切丁寧に描いている部分があるからです。それは博士たちがやってきた目的です。「私たちは…礼拝するためにきました」(2節)。この福音書は、まず系図を掲げてキリスト・イエスを私たちに紹介します。それから実際に誕生されたときの様子を描きながら、この幼子が人を罪から解放する救い主(イエス)であられること、その上私たちとともにいてくださる神さまを私たちに明かしてくださることを紹介します。それから間をおかずにマタイは幼子イエスを訪ねてきた博士たちを紹介して、彼ら自身の個人情報も何もなく、この不可思議な星についてもまるで何も説明もなく、次にマタイが注目を求めるのは、この幼子イエスさまを訪ねる人々が「礼拝をするためにきた」という事実です。この短い段落の中で3回も「礼拝する」ということばが繰り返されていることに注目します。

一通り情報を得た博士たちはベツレヘムに出掛ける用意ができた様子ですが、そんな彼らをヘロデ王は密かに呼び寄せて例の指示を出します。密かに呼び寄せたのは、彼が実のところ自分に代わって王となる存在は、幼子であろうと亡き者とする考えだったからでした。そんなヘロデも博士たちからイエスさまの居場所を探るためには「私も行って拝むから。私も礼拝をするから」と博士たちに話します。真実な動機であれ、偽りにまみれた邪心であれ、幼子イエスさまに近づくときに「礼拝をする」というイメージをこの福音書は冒頭で強烈に印象付けます。やがて幼子イエスを見出した博士たちは「幼子を見、ひれ伏して礼拝した」のです。博士たちの物語をとおして私たちは、イエスさまのもとに礼拝するために集まる人々の姿を見せて頂くのです。

この礼拝の急所はイエスさまが幼子である事実です。まだ病気を癒しなさったり、水の上を歩かれたり、嵐を静めたりしておられません。人々が驚くような御教えを語っておられません。彼らはイエスさまから何かして頂いたから、尊い御教えを教えて頂いたので礼拝をしに参じたのではありません。やがてこの幼子が成人したときに何かしてもらえることを期待して予め礼拝に来た様子でもありません。そもそもこの幼子はユダヤ人の王として誕生したというのですから、自分たちの王さまになるわけでもないのです。

彼らがこの幼子について知らされていたことは実に限られていました。ユダヤ人の王として御生まれになったということ、それからミカの預言によればこの王さまは羊飼いのように民を顧みる善良な王さまになる、というくらいです。少々意地悪な比べ方かもしれませんが、この博士たちと比べたら、旧新約聖書を手元に持っております私たちの方がよほど詳しくイエスさまについて知っていると思うのです。それでも彼らはベツレヘムに向かい、礼拝するために旅を続けるのです。彼らにはイエスさまを礼拝する資格はまだないのではないか。そうではないのです。それがこのエピソードの急所です。何故ならば星はそのような彼らに再び現れて、イエスさまの御下まで導いたのです。神ご自身が、礼拝するように彼らを招き入れなさったのです。

星の特質については謎が多く残ります。けれども神が博士たちに星をお見せになられた辺り、何としても礼拝の心を抱く人々をイエスさまの御許にお招きになろうとなさる神さまの熱意を読み取ることができるのではないでしょうか。一般的にはにわかに納得できる現象ではありません。でも彼らが間違いなくイエスさまの御許に辿り着くためならば何だってなさる神さまの熱い御思いが伝わります。妙な比べ方かもしれませんが、コロナ禍にあって中々礼拝の自由さえ制限されている中で、神さまは同じような御思いを今私たちに向けておられるように感じています。何としても私たちの教会に連なる兄弟姉妹方、この街の方々をイエスさまの御許にお招きになろうとなさる神さまの御思いをしばしば感じます。文明の利器を与えてくださり、インターネットを介して同じ時間に礼拝が守れるように道を備えてくださいました。当方の博士たちのために星の光を灯された神さまは今ではユーチューブの回線を敷いてくださったな、と感謝しています。博士たちは礼拝をして、「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました。この三つの贈り物についても、それらが何を意味しているのか、諸説あります。どれも尊いものだということは分かります。おそらく博士たちが献げられる最上のプレゼントだった、ということだろうなと思うのです。

さて、博士たちは礼拝をして贈り物を献げると、夢で示されて別の道を使って彼らは帰国します。博士たちが自分の国に帰っていったというところにも私たちの礼拝と重なるところがあります。私たちも礼拝が終わればそれぞれの持ち場立場に戻っていきます。しかし私たちは礼拝の場所からただ離散していくわけではありません。その道のりを神さまは懇ろに教えてくださり、またインマヌエルの名前のとおり、主は私たちとともにあってくださるのです。



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