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「ずっと羊飼いであった神」創世記連講[71]

聖書:創世記48章8〜22節


今朝私たちが注目するように導かれていますのは、ヤコブが二人の孫たちを息子たちと見なして授けた祝福の聖言そのものです。15〜16節です。

この祈りの中に私たちはヤコブが神さまの祝福について何を思い描き、期待をしていたのかを読み取ることができます。残されました時間、私たちもそこに心を留めて教会総会礼拝の思い巡らし、そして私たち自身の信仰の歩みの糧とさせて頂きたい、そう願っております。私たちの印象に残りますのは何と言いましても「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」

神さまのことを「私の羊飼い」と呼び掛けるヤコブの信仰は、彼自身の人生に基づいているものです。もともとはお母さんのリベカが実家で羊を飼っていました。創世記には詳しく記録されていませんが、ヤコブが成長している記事の中で、リベカがヤギを牧畜している様子が伺えます。天幕の中で母親の傍にいたヤコブがその術を観察していたのだろうな、と想像するのです。その後兄エサウの怒りから身を守るためにヤコブは単身ラバンの一族の下に身を寄せ、そこでラバンの羊やヤギの群れを飼い、その間巧みに自分自身の群れを起こして家畜を増やしました。家畜の皮膚の色や模様に細心の注意を払いながら、健康な群れを育てた様子を私たちは読んできました。羊やヤギを一頭ずつ観察して丁寧に見分ける種類の羊飼いだったようです。ある意味アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代に至るまで、誰にとっても馴染みのある生業でした。

先祖が御前を歩んだ神さま、とヤコブは仰ぎながら、これまで信仰を全うしてきた人々が同じように「羊飼い」として仰いできた神さま。翻して言えば、アブラハムやイサク、そして彼らの一族をご自身の羊のように慈しみ、労わり、導いてこられた神さま。そのようにヤコブは神さまを仰いで、ヨセフ、マナセ、エフライムの前で祈りを献げているのです。

そして自分の先祖や先代だけではなくて、彼らには遠く及ばない自分に対しても神さまは御真実を表してくださり、私の羊飼いとなってくださった、そのような神さまだということを次の世代に証詞しているのです。「今日のこの日まで、ずっと」この中に彼が歩んで来た147年の年月が全て込められています。格闘に次ぐ格闘、決して平穏無事な人生ではありませんでした。けれども神さまは絶えることなく、そしてたったの今も私の羊飼いであられる。説得力のある証詞であり、信仰告白です。

ヤコブは続けて「すべてのわざわいから私を贖われた御使い」と呼び掛けています。「すべてのわざわい」と一言でまとめておりますが、その中に含まれる数々の痛みや悲しみを私たちは一緒に読み取ってきました。ダビデ王がやはり有名な詩篇を歌いました中にも「たとえ死の陰の谷を歩むとしても」という聖言がありますが、皆それぞれの時代、置かれた場面でしんどい道のりを通過するのですが、それと同時に彼らは同じようにそこから救い出される経験をも重ねて来たのです。「贖う」とはもともと「買い戻す」ことを意味しますが、聖書の中では買い戻す人の思いが表現されます。ひと度は手元から離れてしまったのですが、どうしても手放したくなくて、犠牲を払ってでも再び取り戻したいという熱意が「贖う」ということばに込められています。ヤコブも一度は実家から引き離されますが、神さまの熱い御思いがあって、20年の歳月を掛けて再び家族の下に戻ることができました。これも一つの贖いと言えます。

イエスさまの十字架による救いが「贖い」と言われるのも全く同じ意味です。究極の贖いです。聖書の中には神さまが人々を分け隔てなく贖おうとしておられるというメッセージが溢れていますが、それを実現したのがイエスさまの十字架です。イエスさまはご自身のいのちを贖いの代償としてお支払いになって、私たちを罪と汚れの世界から救い出してくださったのです。ヤコブは生きて来た年月の中で、危険から救い出され、悲しみから救い出され、苦悩から救い出され、神さまは実に救い出してくださる方なのだ、と悟ったのです。「贖う御使い」と言われているのは彼と彼の先代たちの実体験です。神さまはしばしば旅人として現れなさり、幻の中で現れなさり、またヤボクの渡しでは格闘家のようにして近づかれました。しかし会話を重ね、思いを交わす中でこの不思議な人は神さまから遣わされた人物だろうと悟り、そして最後には神さまご自身が本当に私の傍にいて守り導いてくださっていることを自覚したのです。それで「御使い」と羊飼いが重なっているのです。ですからヤコブがエフライムとマナセのために「この子どもたちを祝福してください」と祈っていますときに、彼はこの子どもたちの羊飼いとなってください、と祈っているのです。

そして「地のただ中で豊かに増えますように」と祈ります。「地のただ中で」とは「この現実の最中で」という意味です。飢饉に見舞われたり、異国に移住を強いられたり、不条理な扱いを受けたり、悪意や敵意にさいなまれたり、その最中でも、「豊かに増えますように」つまり神さまのお約束が実現しますように、という祈りです。神さまと次の世代の人々がますます豊かに羊飼いである神さまのご臨在とご同行、神さまとのお交わりを深めていくことができますように、という祈りなのです。

私たちは今朝教会総会を開き、これまで歩んで来ました道のりを振り返ることが許されました。想定しなかった状況になりましたが、私たちもまた神さまが私たちの羊飼いであられることを汲み取ることができたのではないでしょうか。そのことを何よりも感謝し、証詞しようではありませんか。そして私たちがこの状況のただ中で、神さまが羊飼いであってくださることを体験することについて、豊かに信仰と理解が深まりますように、前進致しましょう。



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