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「これさえあれば…の信仰」マタイ連講[059]

聖書 マタイ福音書9章18〜26節


今朝お読みしました出来事も初代教会の間ではよく知られたエピソードです。マルコもルカもしっかりと記録しています。癒しのみわざが二つ同時に実現する一大事だと言えるでしょう。マタイの記録を追う限り、イエスさまはマタイの家で宴を楽しまれ、ヨハネの弟子たちに、今や悲しむときではなく喜びの時、福音が実現するときだと諭され、その話しをなさっているところに、一人の会堂司(指導者)が来てひれ伏したと言って新たな展開が始まります。


この会堂司の信仰は著しいものです。死んでしまった娘を生き返らせてほしい、というお願いです。マタイは他の福音書の記録と少々切り口を変えて、最初からこのエピソードの本題に切り込みます。イエスさまのみわざならば、今死んでしまった娘も生き返る、という確信。会堂司は大胆にもイエスさまにそのような期待を寄せたのです。これまでもイエスさまは何度か病む人に触れて癒されましたが、これは大胆な信仰だったと読み取るべきです。幾ら何でも人のいのちをよみがえらせて頂きたいという願いですから、イエスさまであっても何か特別なことをして頂かないと実現しないのではないだろうか、そう気が急いても十分同情できる場面です。でもこの会堂司はイエスさまに、これまで通りのことをしてくだされば十分、娘は生き返る、と希望を抱いていたのです。鍵はイエスさまが何をどのようになさるのかではなく、イエスさまがお出でになる、イエスさまが御心を向けてくださるだけで生き返る、娘は救われるという信仰です。


イエスさまは弟子たちを伴って腰軽く、躊躇なく大胆な信仰にお応えになり、会堂司の家を目指します。ところがその矢先、会堂司とは対照的な様子で12年長血を患っている女性が背後から近づきます。会堂司とこの女性とは色々なところで対照的なのですが、一つ共通している大事な点があります。それは、会堂司もこの女性もイエスさまに、当時の人々にとってはタブーなことを求めている点です。会堂司はイエスさまに自分の娘の亡骸に触れて欲しいとお願いしているのです。長血を患う女性は逆にイエスさまに触れようとしている。どちらも旧約聖書の教えを踏まえますと、人を汚す行為です。衛生上の問題も含まれていると思われますが、汚れてしまうと人は一定期間の間、公共の場に出ることはできません。会堂司も長血の女性も、当時の宗教家たちの教えによれば、彼らが願っていることを実際に行えばイエスさまは汚れることになるのです。しかし、イエスさまも会堂司も、そしてこの女性も皆その壁を越えた信仰と、そのような信仰への応答に踏み入って救いを見出している、そういう出来事なのです。「この方に、いやこの方の衣に触れさえすれば、私は救われる」これさえあれば、の信仰です。私たちにとって「これさえあれば」は何でしょう?それが何であれイエスさまはその大胆な期待を信仰とご覧になって、「あなたの信仰があなたを救った」と仰せになり私たちを新しいいのちへと押し出してくださいます。


マタイ福音書では取り巻く群衆や弟子たちとの遣り取りが描かれなかったことで、より単純に、この女性の心のうちに考えたことをイエスさまがご覧になって、それを「信仰」とお呼びになられたことが浮き彫りになります。これさえあれば、イエスさまにさえ触れられたなら、イエスさまさえおられるならば、「私は救われる」。その通りにその信仰が、その期待が「あなたを救ったのです。」その時から彼女は救われたのです。「癒された」とした方が日本語として分かり易いのでそのように翻訳されていますが、元のことばでは3回連続して「救われた」と強調されています。このエピソードはこの女性が、これさえあればと救われると言ってイエスさまにすがったときに、その通りに救われた物語です。


さて23節、長血の女性が救われた喜びと解放の余韻に浸りながら、私たちはイエスさまとともに会堂司の家に到着します。するとそこは既に悲しみと嘆きに溢れています。笛吹く者たちや騒がしい群衆、と記されています。彼らは葬儀の悲しみを醸し出すために呼ばれる人々です。笛吹きは悲しい旋律を奏で、泣き崩れる人々はさらに涙を引き出します。これだけの轟くような悲しみと嘆きの只中で、この会堂司は「いや、イエスさまが手を置いてくだされば、救われる」と心に確信した、ということなのです。彼は群衆の取り乱す空気、笛吹きたちの奏でるバラードに呑み込まれずに、イエスさまの下に来たのです。この司の、これさえあれば、の信仰です。


イエスさまがいのちを失った少女について「眠っている」と言われたのは、死は終わりでないことを宣言するおことばでした。これこそ会堂司がイエスさまに傾けた信仰へのイエスさまのお応えです。「眠っている」は死の比喩ではなく、死を退けた神の救いの力を宣言しているのです。そのことをイエスさまのこのおことばは痛烈に示します。群衆はこれをあざ笑ったのです。しかし会堂司はこれに期待したのです。


そしてマタイは、会堂司の「手を置いてくだされば」というイエスさまへの信仰、重ねるようにして衣の房に触れさえすれば、という長血の女性のイエスさまへの思いと信頼、そしてそのような信仰に躊躇なく確かにお応えになるイエスさまの物語が、その地方全体に広まった、という報告で締め括ります。この物語はその地方全体に広まり、さらに福音書を通して初代の教会に広まり、2000年の歴史を重ねて世界の隅々にまで、福音の告げられるところに広まり、耳を傾けるすべての人々を同じ信仰に招き入れるのです。これさえあれば、イエスさまにさえすがれば「私は救われる」。


←今年も見事に咲きました!

 庭先のラベンダーです。

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