「いのちを賭けた信仰」召天者記念礼拝 マタイ福音書連講[058]
聖書 マタイ福音書9章14〜17節
今朝は今年の召天者記念礼拝をお献げすることができ、御名を崇めております。今朝お読み頂きました出来事、出来事というよりは会話ですが、これはマタイという取税人がイエスさまに招かれて弟子となり、自らの家で盛大な宴を設けてイエスさまと弟子たちを、大勢の人々と共に招いた場面の続きです。食卓を囲んだ人々の中には罪人や取税人たちも含まれており、宗教家たちはその様子を見て非難をしたところ、イエスさまから図らずもご自身が何者であられるのかを明かしてくださった、そんな場面でした。病人が医者を必要とするように、イエスさまは罪人を救うためにおいでることを明かされ、他者を断罪し、自分と切り離して「正しい人、きよい人」であろうとするのでなく、「真実の愛」をもって生きることが何か、行って学びなさい、と宿題をお出しになられたところまでお読みしました。
その宴での様子を静観していた「ヨハネの弟子たち」も戸惑いを見せながら、イエスさまのところに「断食」について問い合わせます。断食というと私たちもダイエットや治療のために断食をしたり、精神修業の一つとして断食を励行したりする場合もあります。あるいは、主義や訴えを聞いてもらうために断食をする人々もおります。インドを独立に導いたマハトマ・ガンディーは頻回に断食をして、人民のために戦ったことで称えられています。いのちを賭けでも聞いてもらいたい訴えがある、という意味の断食です。
聖書に出てきます断食は祈りの形です。食事を絶ってまで祈ることを「断食」と言っております。しかも特に悲しみや恐れを抱いて献げる切実な訴え、真剣な思いが込められた祈りが断食です。ヨハネの弟子たちが「何故あなたの弟子は断食しないのですか」と問い合わせたのは、言い換えると、何故あなたの弟子たちは真剣にならないのですか。神さまを信じる生き方について、いのちを賭けないのですか?ということなのです。
私たちは、目に見えない気持ちや思い、考えやその情熱などをかたちや態度に表して欲しいと願うところがあります。ヨハネの弟子たちも心の情熱、悲しみの訴えを断食という態度で示していた、とも言えます。それで熱心に断食を励行しないイエスさまの弟子たちの態度に物足りなさを感じて戸惑ったのです。
主イエスさまは彼らの心の思いを受け止めなさりお応えになります。
「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。」
婚礼という祝福と喜びの催し物の中で、その華やかさを齎しているのが花嫁と花婿。その花婿さんの一番近くで友人としてお世話をしたり、特別に招待されたりしている人たちは、間近でその喜びに触れている人々です。そんな彼らが婚礼の最中で悲しみを味わうはずがあろうか、という例え話を答えの代わりにお話になります。つまり、悲しむ日々、嘆きの時代は終焉を迎えました、という宣言なのです。これまで流してきた涙は拭われ、悲しみは慰められる、そのためにイエスさまはお出でになられたのです。花婿が取り去られる時、つまり新郎新婦が会場を去れば婚礼は終わり、日常が戻ります。花婿・花嫁が宴の喜びの源であることはこのことからも明白です。イエスさまの弟子たちが断食をしないのは、熱意や真剣さが足りず、いのちを賭けていないのではなく、既に悲しみや嘆きから解き放たれて、今喜びの源であるイエスさまとともにあり、彼らには嘆き悲しむ理由がないことをお話になられたのです。イエスさまが今、私たちと共におられるとはそういうことなのです。
イエスさまは更に二つの短い例えを続けてお話になられました。一つは真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てると、古い衣は引き裂かれて、破れがひどくなってしまう、という話。もう一つは新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、古い皮袋は破れてしまい、ぶどう酒も流れ出てしまう、という話。二つの例えに共通しているのは古いものと新しいものの接点です。一つ目の例えでイエスさまは新しいものは、古いものを修復するだけの当て布ではないことを宣言します。古い衣では新しい布を受け止めることができないくらい、真新しい布には生地としての丈夫さに大きな差があるのです。そして二つ目の例えでは、その新しさを受け止めるのには、古いものでは到底間に合わず、新しさをもって受け止め、受け入れる必要があることを諭されたのです。新しいぶどう酒、新しい福音を受け入れる新しい信仰に招き入れなさっているのです。イエスさまを信じる生き方、イエスさまがともにおられるので、悲しみや嘆きから解放され、その源にある罪と闇から自由にされるという信仰が、その新しさの本質です。私たちの信仰はこの時以来、新しさがその大きな特色となっています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
婚礼の花婿は、式が終わればその場からいなくなるでしょう。しかし、イエスさまは私たちのそばから立ち去られる方ではありません。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」この花婿は付き添う友人たちから取り去られることはありません。ですからイエスさまと共にある人々はだれでも、悲しむための断食をもはや献げないのです。古い皮袋はもう用を果たさないのです。今朝私たちが記念しております、召天者の御ひとりびとりは、この新しさの中に歩み続け、文字通りにいのちを賭して、新しい信仰を貫かれ、私たちに輝くような証詞を残してくださったのです。
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