「いのちに至る門」受難節②、マタイ福音書連講[045]
聖書:マタイ7章13〜14節
この聖言もまた教会の中に限らず、一つの言い回しとして世間でも使われております。世間では大概、競争率が高くて実現しにくい状態を指しています。しかしイエスさまはそういう意味で狭い門をお見せになった訳ではありません。
1. 自覚的に選ぶ狭き門
人は生きていく上で門を潜る選択を迫られていることが象徴されています。そして門には2種類しかないのです。私たちが行き着く先、人生のゴールには二つしかないからです。一方は滅びでもう一方はいのちです。滅びは虚しさを象徴しています。それまで積み上げてきた一切が意味をなさない結末です。もう一方のいのちは、その対極にあります。その門を潜るとそこからいのちが始まるくらいの活力があります。絶えず二者択一で入る門を選ばなければならない、とお話ししたところですが、厳密に言い直しますと、選ぶという点でこの二つの門は大きく異なります。大きな門の方は、「そこから入って行く者が多い」と言われているとおり、わざわざ選ぶまでもなく、普通に歩いていればすんなり潜ってしまう門なのです。他方狭い門の方はその限りではなくて、そもそも見つけるのも簡単ではなく、意識的に入ろうとしなければ潜れない門なのです。
門が狭い、とは門の形や大きさのことであるよりは、入る人の意識です。「わざわざ門を潜る」自覚です。イエスさまは山上の説教をとおして私たちに幸いを得る生き方へとお招きになって来られました。その世界を「神の国、天の御国」だと説き明かして来られました。そこに狭い門があることに注目するところから始まります。イエスさまがお招きになっている神さまの豊かな世界、人が幸いを得る生き方に入るのには、無自覚でいては、踏み入ることはできないのです。私はその生き方を見出して、その世界に入る、という自覚というか覚悟が求められます。私たちはこの自覚、この意識的に選び取ること、この覚悟を「信仰」と呼んで尊んで参りました。主イエスさまのお招きに応じて、その生き方を始めます。これまでの生き方と決別をして、イエスさまが見せてくださった門に入ります、と決断を告白するのです。
この門が狭くその道が細く、見出しにくいとすれば、それは招かれた私たちが、その門から入ろうと心を定めないからなのです。少なくともこれまで山上の説教に耳を傾けて参りました私たちの目の前に、堂々と開かれています。
2. 日々の選択としての狭き門
さて、イエスさまがお招きになった「狭い門」は一回潜って終わる一過性のイベントとは異なります。それだからこそ「道」の例えが繋がっているのです。確かに町に入る門は一つかもしれませんが、その門に至るにも、その門を潜ってからも道は続き、道は要所要所で門を潜るのです。その道は門とともに私たちの日々の歩みを描いています。そして門を潜るその都度、日常の中で判断を迫られ、選択を迫られるその都度、私たちはイエスさまの聖言に耳を傾け、門を見出し、信仰を働かせて、福音の恵みの深みにさらに入るのです。
私たちの日々の歩みが広く、大きく、無自覚無意識で流されるようなものであっては残念極まりないのです。私たちの日々の歩みの中に神さまは際限なく、私たちのために恵みを備えてくださっています。その一つ一つを見出し私たちの手の内に受け取ることこそが狭い門から入る歩みです。それらの宝を見落としてしまう生き方にはいのちはなく、虚しさに行き着くのみです。私たちに与えられたたった一度の人生、たった一つのいのちを顧みてくださっているのです。私たちは皆、分け隔てなくどうしても門は潜ることになるのです。それならば狭い門を見出して、活力に溢れた道を歩み、いのちに至るように心を定めようではありませんか。
3. 細い道の怪
「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。」
この部分は翻訳者が2017年版で工夫して訳し直したところです。2ヶ所改訂されました。一つは今まで平叙文で、淡々と語っておられるように翻訳されていたのが、2017年版では感嘆文に改訂されました。「なんと狭く、なんと細いことでしょう!」イエスさまのお気持ちが前面に表された言葉遣いになりました。イエスさまはご自身が招いておられる門の狭さ、その道の細さに心底驚いておられます。それだけ「見出す者がわずか」だという危機感が表されています。
さて、もう一点、第3版では「門は小さく、道は狭く」となっていましたが、ここは原語に忠実に訳すことにして、狭いのは門です。いのちに至る道の方が「細い」に変更されました。これはできるだけ原語のイメージを大事にしよう、という趣旨に合わせたものです。この道の様子を表すことばは幅の狭さを表すというよりは、その道を通るしんどさを表すことばになっています。狭い門から入る道は、そこを通過しようとすると阻むものがあって簡単には進めない。イエスさまがお招きになられた生き方は、そこに徹しようとすれば、抵抗があり、阻むものがあることが暗示されています。それでも主イエスさまは「狭い門から入りなさい」とお招きになるのです。なんと狭く、なんと細い道でしょうと、私たちも驚嘆しなければならないことがあっても、この道、この生き方は命に至るのです。必要な力も知恵も、勇気も忍耐力も求めるだけ与えられるのです。そして祝福で報われるのです。私たちの先輩たちもそのように報われてきたのです。「狭い門から入りなさい。」主のお招きに信仰をもって応答しましょう。
主はご自身のことを「わたしは門です」「わたしが道です」と仰せになりました。その主を仰ぎながらこの週、備えられた道を進みましょう。
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