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「『もはや』と『やがて』の狭間に」マタイ連講[055]

聖 書:マタイ8章28〜34節


イエスさまと弟子たちを乗せた舟は湖の向こう岸、「ガダラ人の地」に着岸します。他の福音書の記述と比べて、マタイの記録は簡略になっています。悪霊に憑かれた男たちにはあまり注目が行かず、悪霊自身の声が最初から響き渡ります。そうすることで私たちはイエスさまとは如何なるお方なのか、そして悪霊やサタンとは如何なる存在なのかに集中することが期待されています。


1事の真相を見抜く悪霊

さて、悪霊に取り憑かれた男が二人現れますが、彼らの様子は全く見えません。早速彼らの声が聞こえてきます。「彼ら」とは二人の男ではなく彼らに憑いた悪霊どもでしょう。彼らはイエスさまを仰ぎ見て真っ先に「神の子よ」と呼び掛けるのです。権威に溢れた山上の説教を耳にし、癒しのみわざを目撃し、自然界までそのおことばに従うのを目の当たりにしたも弟子たちでも「あなたは生ける神の子キリストです」と告白するのはまだまだ先のことです。聖書が説き明かす悪霊あるいはサタンとは、すべての真相を見抜いている狡猾な存在です。人間の知性や洞察力など比にならないほど鋭く、物事の本質を捉えています。真理を知っています。私たちは彼らを断じて弄んではなりません。

イエスさまのことをいとも容易く見抜いた彼らは、人の本質をよく見抜いています。ですから私たちは決して彼らを弄ばず、罪や穢れ、誘惑に近づかないように殊更に注意します。決して彼らが恐ろしいからではありません。悪霊が全てを見極めているからです。

ただ、彼らはイエスさまのことを神の子だと認めて心底怯えていることも事実です。主イエスさまの権威はこの場にあっても揺るぎありません。全てを見透かす悪霊がそのことを悟って恐れおののいているのです。


2. すべてを滅ぼす悪霊

さてイエスさまを一瞥して神の子と悟った悪霊たちは、距離を取りたがり、また苦情を申し立てます。悪霊たちが不服だとしているのは、「その時ではない」というタイミングの問題です。イエスさまが宣教開始されたとき、開口一番に「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」天の御国が近づいたと言われましたが、それがいつどのように到来するのかについては詳しく触れずに先へと進まれました。今、その点を悪霊たちがはっきりとさせたがっているのです。彼らは真相をすべて悟っていて、その時、神の国が本当の意味で到来したならば、彼らの活動はおろか、彼らの存在そのものも全てが滅びることを弁えているのです。これはこの上ない皮肉です。何故ならば悪霊たちの活動の本質はあらゆるものを滅ぼすことだからです。このエピソードはまさにそのことを象徴しています。存在の目的が滅亡である彼らが、己の滅亡に怯える皮肉です。

それで彼らは態度を改めて懇願までするのです。自分たちを追い出すならば、豚の群れの中に送ってほしい」と。イエスさまは「行け」と言われ、これまで同様に主は悪霊に憑かれた二人を救い、ご自身の権威を示されます。同時に、イエスさまがここで悪霊たちをご自身の御手で滅ぼしなさらなかったのは、主ご自身も神さまがお定めになった「その時」を重んじられたからです。究極の審判を天の父なる神さまにお委ねになるイエスさまのお姿です。ところが悪霊どもが豚の群れに入るとたちまち、豚の群れが一斉に水に溺れて死んでしまったのです。悪霊の本質はあらゆるものを滅ぼすこと、彼らが触れるもの全てが滅びるのです。神さまがお創りになった全てを滅ぼす。それだから私たちは彼らと関わりを持たないのです。ここに描かれておりますのは、すべてを生かす主イエスさまと、すべてを滅びへと引き込む悪霊たちとの対峙なのです。そして主が圧倒的に治めなさったことを私たちは見極めなければなりません。


3. 爪痕を残す悪霊

それを見逃してしまったのがガダラの町の人々でした。彼らはイエスさまが豚の群れを滅ぼしたと思ったのです。彼らがイエスさまに怯えた理由がよく分からず、私たちは違和感を持ったままこの物語を読み終えるのです。ただこの違和感は決して馴染みのないものではありません。むしろ私たちが日々の歩みの中でイエスさまに従って生きようとしますときに、しばしば私たちの周囲から向けられる拒絶と似ています。教会が救いを語るときに向けられる無関心と重なります。救いのみわざを続けなさるイエスさまと、触れるものすべてを滅ぼす悪霊たち、そして滅ぼされた豚の一群。信頼して従うべきお方がどなたなのか明確なはずなのですが、町中の人々にはその判断がつかない。これは悪霊たちの残した大きな爪痕です。彼らは「その時」まで闇から闇に潜み、人々を墓場に捉え、私たちの現実の中で爪痕を深く残しているのです。けれどもマタイは力強く主イエスさまの圧倒する御力を私たちに指し示し、この方に勝利があることを高々と宣言しています。神学の専門家たちはそんな私たちの現実を、「もはやすでにとやがてその時の狭間」と呼んで説明しています。「もはやすでに」神の御国は到来したのです。主イエスさまの十字架とよみがえりをもって私たちに勝利を与えてくださった。同時に私たちは「やがてその時」が到来するのを待ち望んでいます。イエスさまが再びお出でになり、最後の審判を下し、私たち一人一人に義の冠を授けてくださる報いの日を待ち望みながら歩んでいます。そのいずれもただ一点、主イエスさまだけに心を傾けて踏み出すことが鍵となります。皮肉にも悪霊たちが一瞥して見極めた「神の子であられるイエスさま」を私たちは信仰をもって仰ぎ見て、前進することが許されます。

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