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「『はい、主よ』と言う信仰」聖日礼拝 マタイ連講[060]

聖書:マタイ9章27〜34節


今朝は二つのみわざをまとめて御読みしました。マタイはイエスさまがなさったみわざの素晴らしさそのものに目を止めるだけでなく、この二つのみわざを通して私たちがさらに見極めなければいけない大切なメッセージがあることを示そうとしています。目の見えない二人の男性が「私たちをあわれんでください」、つまり見えない目を癒してください、と願いながらイエスさまについて来たとき、イエスさまは、「わたしにそれができると信じるのか」とお問いになりました。ここにきて初めて、イエスさまの方からご自身への信仰を確かめなさったのです。そして今朝お読みしました二つの癒しのみわざはこの問い掛けに対する人々の返事をお待ちになるイエスさまが描かれています。


家の中までイエスさまについてきたこの二人が望んでいたのは言うまでもなく目が見えることでした。それで目に触れてくださった。彼らがイエスさまにすがったおことばが意義深いものです。「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」。「ダビデの子」とは、イエスさまが神さまから約束されたキリスト、つまり救い主だということを示す手掛かりです。視界が遮られて目の前にいる人物がどのような人なのか全く分からないこの二人の男は、それでもこの方こそ救い主だと確信したのです。それで「ダビデの子よ」と叫び続けたのです。


それから彼らは「私たちをあわれんでください」と叫びました。彼らが「あわれんで」と言っていることばと、13節の「真実の愛」は同じことばなのです。そのことを意識して訳してみると「ダビデの子、救い主よ。私たちに真実の愛を注いでください」と叫び求めているのです。これが彼らの求めの本質です。

人が神さまに祈り求めるとき、神さまの真実の愛に期待することが幸いです。そしてそのとき主は私たちに「わたしが真実の愛を注ぐと信じるのか」とお問いになります。そのときに私たちが、この二人の男たちのように「はい、主よ。」とお返事すること。このお返事がこの癒しの急所なのです。


彼らは二つのことだけをお返事したのです。一つは「はい。」というお返事。それだけです。何を信じるとか、信じるとはどう言う意味だとか、どの程度信じるだとか、何もなくただ「はい。」新約聖書の中には「はい」と返事をするときに、合言葉のように「アーメン」と言う場面がいくつかありますが、信仰的な返事でもないのです。はい。それだけでよいのです。

もう一つ彼らが返事をしたこともまた、大切な志です。彼らはイエスさまのことを「主よ」とお呼びしたのです。先ほどは「ダビデの子よ」とイエスさまをお呼びしました。ダビデの子、とは特にユダヤ人であれば「救い主」と同じ意味だと学びました。イエスさまは神さまが遣わされた救い主だと彼らは弁えていたのです。けれども今、彼らはその救い主を「主よ」とお呼びして、「私」のこととして受け止めている告白です。敢えて言えば、あなたを私の主とお呼びします、と返事をしたのです。これからはあなたに従って行きますという告白です。この服従は実に自由です。癒された後、イエスさまは彼らに「だれにも知られないように気をつけなさい。」と厳しく戒めなさいます。ところがその直後、二人は「出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた」のです。真実の愛をお喜びになる方を主として従う歩みには本当の自由があります。マタイもまた何の咎めるところなく彼ら二人がイエスさまのことを言い広めたことを私たちにも明かしているのです。


そこに悪霊に憑かれた口がきけなくなっている人を仲間たちが入れ替わりで入ってきます。悪霊に憑かれた人の癒しの成り行きはマタイらしく、すっきりと割愛されています。けれどもあの二人の男たちのときと同じように、イエスさまは「わたしにそれができると信じるのか」と問われ、この男も「はい、主よ」と返答をした様子を容易に想像できます。彼の癒しと救いのみわざが確かなものだったので、そこにいた人々は驚いて「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言ったのです。見たことのない新しい救いのみわざ。まさに新しいぶどう酒、真新しい福音の世界の始まりを彼らは目の当たりにしたのです。


さて、このエピソードはここで終わらず、もう1文記されています。パリサイ人たちのことばで終わっています。彼らはイエスさまの「わたしにそれができると信じるのか」という問い掛けに、頑なに「いいえ」と答えたのです。そして「イエスさまではなく、悪霊どものかしらによってしていると信じる」と答えたのです。「はい、主よ」と応えない人々の応えが何かを分かり易く示す返答です。福音書は、イエスさまの素晴らしいみわざや御教えに対して、いつでも感謝や称賛が向けられた訳ではなく、批判や否定がされることもある事実を記録しています。しかし、それらの記録は決して私たち読者が一緒になって彼らを非難するためではなくて、私たちの心にも同じ頑なさが居座っているのではないか、と問い掛けるのです。分別のある私たちは悪霊を引き合いにだすような真似はしないかもしれません。けれども、臆病のためにでしょうか、他の何かに配慮をしてでしょうか、イエスさまが私たちの祈りにお応えになられたことを隠してしまう誘惑にしばしば晒されます。そのような誘惑や妨げから守られて、「はい、主よ」とお応えした信仰に真実の愛を注いでくださったことを証詞するときに、私たちは人々にいまだかつてなかった恵みと祝福の世界、福音による新しい世界、イエスさまが語られる神の国を証しするのです。




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