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「ヨセフ、神の霊が宿る人」[創世記連講59]

聖書 創世記41章1、8〜17、25〜39節

今朝お読み頂きました章は、ヨセフの物語でも彼がいよいよ引き上げられる場面だと言われて、多くの人々から親しまれています。彼は他ならぬファラオの夢を解き、その解き明かしに基づいてファラオがなすべきことを進言したのです。そんな彼のことをファラオは「神の霊が宿っている人だ」と称賛しました。素晴らしい証詞です。そして聖書は、私たちも皆主イエスによって救われたのならば神の御霊が宿っていると信じています。とすれば、今朝の物語は私たちの在り方に光を照らすものであるはずです。「神の霊が宿る人」とは…

1治める賜物を持つ人

ファラオがヨセフを神の霊が宿っている人だと弁えてすぐにしたことは、権威の移譲でした。つまり治める力をすべてヨセフに委ねたのです。ヨセフはこれまでも、こういったことがありました。ポティファルの家でも、その後監獄に収監されたときもヨセフの主人は彼の手に全てを委ねました。

神の霊が宿っている人の特色は「治める賜物」です。何も地位や立場の話ではありません。「治める」という生き方があるのです。裏返して言うならば、御霊をうちに宿す私たちは身の回りの事柄に、またあらゆる力に振り回されることなく、むしろ治める恵みに与っていることを確認させる聖言なのです。思い起こせば天地創造のとき、神さまは人をご自身のかたちとしてお造りになり、こう祝福されました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。すべての生き物を支配せよ。」地を従えよ、すべての生き物を支配せよ、とは地上に神に成り代わって君臨せよという意味ではありません。ましてや自分たちの利益のために暴君のように好き勝手にこの世界を我が物にしてよし、等という意味ではありません。しかしこの世界をお造りになられた創造主の御心のかけらを私たちはうちに秘めているのです。それで創り主がこの世界に抱かれる慈しみを私たちも持ち合わせているのです。神さまが麗しく仕組まれた世界の秩序を、私たちもまた美しいと感じ、その麗しさに世界が保たれることを望むのです。治める、とは主のその御旨を私たちのものとすることです。ファラオはそのようなヨセフを指差して「神の霊が宿っている人」と称えたのです。

2人を御心に導く人

さて、ファラオがヨセフのことを「神の霊が宿っている」と捉えましたのには、ただ単に夢を解いたというだけでなく、そのことを通してファラオのなすべきことを言い当てたところにあります。33節からしばらくヨセフはファラオに、何をするべきかを指し示しています。「ファラオは…行動を起こされますように。」ファラオに行動を起こせ、と迫っているのです。ヨセフは何をしているのでしょうか。彼は夢を解きながら、神さまの御心をファラオに明らかにし、さらにファラオを神さまの御心に導こうと促しているのです。神の霊が宿っている人は、人を主のみもとにお連れすることを喜びとします。福音書には何人も仲間や家族をイエスさまの御下に連れて行く人々が記録されています。そして彼らはそのことで称えられています。

その逆のことをイエスさまは本当に忌み嫌われました。イエスさまから、福音から人を遠ざけようとする言動をイエスさまは本当に忌み嫌われなさいました。主に近づこうとし、福音に耳を傾けようとする人々を真理から遠ざけようとする者を主は「躓きだ」と厳しく叱責なさったのです。私たちは皆、分け隔てなくイエスさまに近づくよう、大胆に恵みの御座に近づくように招かれているのです。神の霊が宿っている人ヨセフは、まさにファラオを神さまの御旨に、神さまの御心に招き入れようと「行動を起こされますように」と声を掛けているのです。

3神のご計画に期待する人

神の霊が宿っている、と称えられたヨセフの徹底しているところは何と言っても神さまのご計画に期待するところです。夢を解きながらヨセフは、神さまが何をなさろうとしておられるのか、その一点にしか関心と期待を寄せていないことが読み取れます。言い換えますと、ヨセフは必ずしもファラオに未来の出来事を伝えようとしたのではなく、神さまがなさっていること、なさろうとしておられることを伝えたのです。このことはこれまでも見えていた点ではありました。しかし天下のファラオを前にして、ヨセフはいよいよ旗色をはっきりとさせます。私たちは神さまがなさろうとするみわざがある事実に期待を寄せることが幸いなのだ、と。先行きの見通しが明るいと言って有頂天になるでもなく、物事がどんどん悪くなっていくからと言って絶望するでもなく、私たちを囲む世界がどのように移り変わろうとも、その中に神さまの御心があり、神さまが手掛けておられるみわざが進んでおり、神さまがなさろうとしていることがある事実に安堵をする幸いをヨセフは知っており、ファラオにそのような祝福を告げ知らせているのです。そのような聖徒をファラオは「神の霊が宿っている」と称したのです。

今朝は敬老感謝の礼拝をお献げしています。神さまが私たちの群れにも多く「神の霊が宿っている人々」を加えてくださっていることを感謝したいと思います。そしてお一人一人の祝福を祈ります。ただ、多くの先達のさらに先頭にいつでも走っておられるのがイエスさまです。私たちは改めて「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と招かれています。

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