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「主が彼とともにおられ」[創世記連講57]

聖書 創世記39:1〜23

ヨセフはまるで何かの商品のように自分の兄弟たちの手から商人の手に渡り、今度はエジプトの高官の手に渡ったのです。人の目から見れば明らかに不幸で気の毒な人生です。ただ希望を抱けるような記述もあります。繰り返し「主がヨセフとともにおられたので」と私たちに説き明かし、このことが鍵となることを見落とさないように指し示します。主が共におられる、というおことばはこれまでアブラハム、イサク、またヤコブとともにおられた神さまをすぐに思い起こさせます。ヨセフもまた同じように神さまが伴い祝福してくださる。私たちはこれからヨセフの身に起こることを追いながら、神さまが共におられることが何を意味するのかをまた新たに学ばせて頂くことになります。

ヨセフの生涯を読み解くために鍵となることがいくつかあります。一つは神さまが共におられる、ということ。それは見逃しようがありません。ただもう一つ大事な鍵があると言われています。それは「手」です。ヨセフは人の手から手へと何かの品物のように移されていきます。兄たちの無事を確認するために遣わされた彼は、その兄たちの手の中に陥ったのです。ルベンは虚しくその手から彼を救おうと試みます(37章21〜22節)。四男のユダは銀20枚で彼をエジプトに向かう商人たちの手に渡します(同27節)。人の手に陥る、人の手に収まるとは、その人の力、支配、権威の下に従わされることを言い表しています。ヨセフの人生はまさに自分の手を離れてしまい、人の手に渡ってしまった、そのように描かれています。やがてエジプトのファラオの廷臣、侍従長のポティファルが、イシュマエル人の手からヨセフを買い取ったと言って物語が続きます。ですから私たちの目にヨセフは兄たちの手から商人に、今度は商人たちの手からポティファルにその支配権が移ったように見えるのです。ですから先ほども「不幸で気の毒な人生だ」と言ったのです。

ところが創世記は大きく異なる展開を示します。「主人はヨセフの手に全財産を任せ」(6節)。また出てきました。ヨセフの手です。ポティファルは自分の手の内にヨセフを収めたのではなく、ヨセフの手に自分の権威を託したのです。一見するとヨセフの人生はポティファルの手の中に握られているように思われますが、実のところ主人ポティファルの全財産をむしろヨセフが手に収めていた、という場面なのです。主は問いかけておられるのではないでしょうか。私たちの日々の歩みの中で、人の目に映る現実と、主が伴っておられることを知らされたお互いが弁える真実の違いを捉えることができるか、と。そして主がお見せになる真理を見極めるように、私たちは招かれているのではないでしょうか。

さてそのような現実の中、早速ヨセフに試みが訪れます。ポティファルの妻がいかがわしい誘いを執拗に持ち掛けてきたというのです。彼女は言ってみればヨセフを自分の手の中に収めようとしたに他なりません。彼女の目にヨセフは主人ポティファルの手の中にある品物でしかなかったのです。しかし実のところ、ヨセフはそもそもポティファルの手に渡されてはおらず、従ってその妻の手に渡る筋合いもないのです。神さまが伴われる祝福の現れは、だれの手にも落ちない自由にあると言うことを示しているのです。神さまが伴われるならば、ヨセフは誰の手にも落ちることがない本当に自由な存在なのです。そしてこれこそが福音の本質です。救われた私たちに与えられたこの上ない祝福です。神さまが伴われるならば、私たちは本当の意味で自由なのです。

主イエスはご自身に付き従う者たちに「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」と宣言されました(ヨハネ8.36)。使徒パウロもまたガラテヤの兄弟姉妹たちに「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」(ガラテヤ5.1)と諭しました。

「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです」と。

何よりも私たちは罪の咎と枷(かせ)から完全に自由になります。良心の咎めから完全に解放されて前に進むことができる。イエスさまの十字架の死はそのことを実現させたのです。

ヨセフはポティファルの妻の手に自ら陥ることを、神さまが与えてくださった本当の自由を捨ててしまうことと弁えたのです。それで彼は妻に対して「神に対して罪を犯すことができるでしょうか」といって断っているのです(9節)。もちろん不道徳も究極的には神さまに対する罪ですが、ここでヨセフが神さまに背を向けるものかと踏みとどまっているのは、神さまが与えてくださった祝福、本当の自由に対する感謝とその賜物の尊さに対する弁えだったのです。

ヨセフの状況は怒れる妻の偽りのために悪化の一途を辿るように見受けられますが、実のところ彼は監獄の中でも自由なのです監獄の長の手に渡らず、長の権威をむしろ彼は手中におさめてしまったのです。神の御同行が真の自由を与えることの証詞です。

新たな週に、また新しい月に足を踏み入れるお互い、福音によって与えられた真の自由をもってこの世に出で行こうではありませんか。この世は様々な物差しや価値観で私たちを捉え、独自の要求や期待で私たちを手の中に収めようと試みます。傍目に私たちがどのように映るのかは本質的な問題ではありません。私たちが福音によって得た尊い自由を手放さずに前進することが、世に対する証詞であり、神さまから託された祝福をお届けする務めなのです。

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