top of page

「ヨセフ、夢解く男」[創世記連講58]

聖書 創世記40章1〜9(23)節

1ヶ月前、私たちは「夢見る男」ヨセフに注目をしました。爾来彼の生涯を追っています。彼は神の御心と幻をみることのできる人物、それをありのまま人々に知らせたのです。そのために彼の人生は不遇の連続、のように見受けられますが、実のところ置かれた場所で務めを果たし着実に実を結んでいたのです。ここに来て新たな展開です。今囚われている(しかしそこで管理をしている)監獄に新たに犯罪者が二人収監されます。ファラオの廷臣で献酌官長と料理官長。その彼らが同じ夜に夢を見て不安になっているのです。その意味が知りたい。そこでヨセフが名乗り出てその夢の意味を伝えます。献酌官の夢に出てきたぶどうのつる3本は3日後を指し、彼がぶどうの房から果汁を絞ってファラオの杯を満たしているのは彼の復職を意味している、と。また他方料理官の3つのカゴも3日後を指し、ただ彼の用意した食べ物が取りに食べられるのは、彼が復職することなく処刑される、とのこと。

その3日後、その日はファラオの誕生日で、その祝いに伴って恩赦でも出たのでしょう、献酌官長は赦されて元の役職に戻されます。ところが料理官長の方は気の毒にも木に吊るされて処刑されてしまいます。犯罪者ですから気の毒がってはいけないのかもしれませんが、要点は二人の顛末がヨセフの解き明かした通りであったという事実です。そのことを通して創世記は私たちに少なくとも二つのことを明らかにしています。

1神さまがなさるみわざ

第一にヨセフが8節で述べている聖言に耳を傾けましょう。

「解き明かしは、神のなさることではありませんか。」

一国の長官たちは「解き明かす人」を探して狼狽えています。夢を解き明かす人、いや自分の未来を占ってくれる人、分からない世界を見せてくれる人を探し求めて顔色がさえないのです。この二人が特に臆病なのではありません。むしろ彼らはごく一般的なエジプト人、代表的なエジプト人なのです。この後で、ファラオがまた夢を解き明かす人を探す場面が出て参ります。つまり、ここで描かれている「夢を解き明かす人を探す」とは、極めて常識的な、一般的な、だれでもそうするであろう世の考えなのです。

ヨセフがこの二人に放ったことばは、ですから世の常識に対する異議申し立てなのです。将来について占うのは人のすることではない。「神のなさることではありませんか」。あなたの未来をお示しになるのは神のなさること。あなたの不安を取り除いて平安を与えてくださるのは神のなさること。あなたの疑問に対して答えを与えてくださるのは神のなさること。

この世は私たちに言い含めるのです。自分のことは自分でカタをつけなさい。最近はとみに持て囃されていることばが「自己責任」です。今やこのことばは一人走りをはじめ、暴走をして私たちを追い立てているように思えてなりません。また自分で責任を負い切れない事柄に対しては、周囲を見渡します。知り合いに助けてくれる人はいないか、行政や専門家が教えてくれるのではないか。勿論私たちは社会に備えられている様々な援助や人脈、人々が積み上げてきた技術や知識を否定したり、ないがしろにして世捨て人になれなどとは言われていません。しかし、ヨセフを通して私たちが改めて汲み取るべきメッセージは、助けのみわざは神のなさることではありませんか、という確認です。そのことにたどり着くことができるならば、そのことを悟ることができたならば、人は答えを得たも同然なのです。

「あわれみと赦しは、私たちの神、主にあります」そう言ってイスラエル民族を代表して悔い改めの祈りを献げた預言者がいました。ダニエルもまた神のなさることを弁えていたのです。ヨセフは自らが通過した様々な経験を通して弁え知ったのでしょう。神のなさることを悟って、神さまにお任せする幸いです。罪からの救い、問題課題に向き合う力、試みを乗り越える道筋、私たちの日毎の養い、あらゆることの中に「神のなさること」を弁え知って安堵すること、それが聖書を通して教会がお伝えしている生き方です。

2人がなすわざ

二つ目の教訓は安堵する、ということについてです。これまでやってきたことを放り投げて、左うちわでことの成り行きを眺めていればよいのでしょうか。人は頼りにならないから。確かに人は期待しているほど頼りにはならないようです。献酌官長は三日後、復職をするとヨセフのことを「思い出さないで、忘れてしまった」これがこの物語のエンディングです。この物語は人は頼りにならないということを教えようとしているのでしょうか。人が頼りないことなどはこの物語を読むまでもありません。この物語が伝えているヨセフの姿は、神さまのなさることを弁えて、その中で安堵を得て、自らに課された務めを今まで通りに続け、また新たになすべき働きを見出しては専心し、あらゆるところに手を尽くす誠実さです。

安堵して全てを主に委ねることと、人の世にあって務めを宜しく果たし、その中で知恵と創意をもって可能性を探っていくこととは断じて矛盾しないのです。ヨセフは機会に巡り会えばその機会を用い、役目を与えられたらそれに専心し、監獄でもポティファルの家でも、この先ファラオの元でも忙しく手のわざを果たしていくのです。

新しい月に足を踏み入れたお互い、与えられました務めにますます励ませて頂こうではありませんか。

タグ:

Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page