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「馳せ場の途上にいる私たち」

聖 書:ヘブル12:1〜3

 昨年の教会創立記念礼拝の際に、このヘブル書12章2節をお開きして、70周年を迎えるにあたって神さまから頂きました聖言です、と紹介させて頂きました。また2020年の標語聖句としてもこのヘブル書12章2節の聖言を頂戴して歩み出しました。神さまはしばしば大切なメッセージを繰り返し語られます。「あらゆる場面でイエスさまから目を離さないでいるように」という語り掛けは、私たちの信仰の歩みの一つの側面というよりは、私たちの信仰の歩みの根幹、本質に関わる姿勢だということになります。

 今年の年頭にこの語り掛けを頂きましたときには、私たちがどのような問題・課題と向き合のか想像だにしていませんでした。まさかその数ヶ月後に70周年のプロジェクト多くが大きく変更を強いられるとは想像だにしませんでした。そして変更を余儀なくされるのは確かに残念なことです。それだけ祈り、備え、楽しみにしてきた事柄ですから、むしろ残念に思わない方が不自然でしょう。しかし、残念に思うことと、失望することとは違います。ましては残念に思うことと、不満に思うこととは大きく違います。その違いはイエスさまから目を離さないでいるかどうかで変わるのです。ここまで教会の営みが直接影響を受けるとは想像していませんでした。それでも私たちが失望したり、疲弊したり、あるいは神さまの真実さに疑問を抱いたり致しませんのは、信仰の創始者であり、完成者である主イエスさまを仰ぎ見ているときです。

1創始者を仰ぎ見る

 信仰の創始者である主イエスさまを仰ぎ見るとは、私たちのこれまでの歩みを振り返ることと深く結びつきます。2000年前のペンテコステの朝9時過ぎにエルサレムで誕生したときから今日に至るまで、教会が辿ってきた祝福の軌跡、また戦いの軌跡を振り返りますときに、いつでもその源に主イエスさまがいらっしゃるのです。祝福を受けて教会が輝いた時代もありました。それこそ神の国はこの地上に実現したと感じるくらいに教会と私たちの信仰が繁栄を見た時代です。しかし、その先には天の軍勢を率いて雲の上より現れなさるイエスさまがおられる。人の手では生み出せないほどに白く輝く衣を身にまとわれた主が現れなさる。そして、私たちが愛でる繁栄と栄光がまだまだ小さな明かりでしかないことを見せてくださるのです。改めて私たちの主イエスさまが本当に、私たちの信仰の源であられる、私たちの信仰が結ぶ実の源であられることを悟り、御名を崇めることになるのです。

 2000年を振り返ると繁栄と祝福だけではありませんでした。試みや戦いも多く通過した歴史です。むしろその方が多い。そして極めて深刻な試みを経験してきました。しかしそのような歩みを振り返りますと、その先にやはり主イエスさまがおられるのです。私たちの信仰の創始者であられる主が「わたしをご覧」と仰せられて手の傷、脇腹の傷をお見せになります。かつてトマスになさったように、手の傷に触れてごらん、脇腹の傷に指を入れて、わたしが苦しんだ証詞を確かめるがよい、と招かれるのです。そしてあなたの痛みをわたしは知っている、あなたの悲しみにわたしも涙する、あなたの苦しみをわたしも味わったと仰せになって寄り添われるのです。そして信じない者ではなく信じる者になるように、見ないで信じる者となるように招いてくださる、信仰の創始者が主イエスさまです。そのときに私たちは不思議なように、ちょうどエマオの途上の二人の弟子たちのように、心のうちから熱く燃えるような力が与えられ、その力が忍耐となり、原動力となり、ときに正義となり、ときに寛容となり、私たちを前に押し出すのです。

 私たちの教会の70年の歴史を振り返るとき、私たちが受けて参りました祝福と結実の数々、私たちが取り組んで参りました戦いや試練の数々を数え上げるときに、その先に必ず主イエスさまがおられます。そして主は私たちに与えて来られたあらゆる祝福と恵み、結実に優って豊かなご自身をお示しになるのです。また、私たちがこれまで忍んで参りましたあらゆる苦悩や試みをご覧になり、改めてご自身が受けられた御傷をお見せになりながら、私たちの苦しみをねぎらってくださるのです。

2完成者を仰ぎ見る

信仰の完成者である主イエスさまを仰ぎ見るとは、私たちの歩みのこれからを展望することと結びついています。私たちが自らの将来を展望します時に、悲観的になるならば、私たちは主イエスさまから目を離さないでいることが幸いです。主はそのような私たちに、想定し得る最悪の顛末となってもそこから確かに救い出して、十分に償って祝福するだけの豊かさを持ち合わせておられることをお示しになります。

 逆に私たちは将来に大いに夢を託し、あるいは希望に胸を膨らませて期待を抱くかもしれません。素晴らしいことだと思います。けれどもそのようなとき、私たちは自らが描く未来図から目を離して主イエスさまに目を止めることが幸いです。何故ならば主イエスさまが私たちのために備え、お約束くださる未来は私たちの想像や計画を遥かに越えて豊かで麗しいものだからです。信仰の先輩方は皆、そのことを期待して生涯を全うした、ヘブル書の説教者はそのように説き明かしておりました。私たちもまた、同じように主イエスさまに目を据えてこれからも走り続けるようにと、聖言は私たちを招いています。

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