「見えない力に囚われず」[創世記連講55]
聖書 創世記37章12〜36節
先週から私たちはヤコブの息子たちの中でもヨセフに注目して、創世記の新しいステージに読み進めました。前回は劇的な幕開けを見せて頂きました。ヨセフは純粋に悪を忌み嫌い、その一方では神さまがお見せになる夢・幻をそのまま見ることのできる人物であったことを読み取り、私たちが今の時代にあって神さまの幻を希望と期待を抱いて見据えるお互いであるように、励ましを頂きました。
ヨセフは、アブラハム、イサク、ヤコブと異なり、神さまが直接現れて、ヨセフに語り掛けなさる場面が一つもありません。彼は「夢見る者」と呼ばれていますが、その夢の中でさえ神さまと直接出会う経験をしていません。少なくともその記録が一つも残されていません。しかし、そういう意味では族長たちの中でも私たちにとても近いのではないでしょうか。
さて、あれほどヨセフに対して兄弟たちが憤りと妬みを抱いていたのに、そんな兄弟たちの中に父ヤコブはヨセフを送り出します。さらに言えば、お兄さんたちが羊を放牧するために出向いた地域が「シェケム」だと書いてあります。シェケムと言えば、妹ディナが辱められた場所です。確かにハモルの一族に復讐を果たして彼らを一帯から追い出したようでしたが、それにしてもそこでまた羊を飼っていたことになるのです。暗雲立ち込める空気は肌身に感じます。私たち読者は、お兄さんの心のうちにある悪意を知らされていますし、もう既にこの後何が起こるのかを大体知っていますから「暗雲が立ち込める空気」を感じ取ることができるのでしょうけれども、当の父ヤコブもヨセフもまるで無頓着であるかのように、立ち振る舞うのです。父ヤコブは兄たちの無事を探らせようと、彼らのところにヨセフを送り出し、ヨセフの方も二つ返事で出掛けてしまいます。ヘブロンからシェケム、さらにドタンまでは徒歩で5日程度掛かる距離、父ヤコブの保護の届かない距離です。
1目に見えない悪意の現実
そこで最初の疑問が湧いてきます。「いったい何故父ヤコブはそんなに大事な息子ヨセフを悪意に満ちた兄たちのところに送り出したのだろう。そして何故ヨセフは何の抵抗も疑念もなく兄のところに、父の保護を離れたところまで出掛けて行ったのだろう」答えは明瞭です。彼らの目に悪意が見えなかったからです。ヤコブやヨセフの目が節穴だったのか、兄たちが気持ちを隠すことが狡猾にも上手だったのか分かりません。彼らには兄たちの著しい悪が見えなかったのです。そして悪は今でも私たちの身の回りに蠢いていて、それでいて見えないことがあまりにも多い。
18節以降を読み進めますと兄たちが抱いていた悪意が明瞭に描かれています。「彼を殺そうと企んだ」。しかもヨセフを遠巻きに見出した時からそう思ったというのです。目に見えない悪の行き着く先には究極の悪が巣食っています。彼を殺そう。それでもなお見えないのです。
2見えない力に気づけない現実
目に見えない力であるために、私たちはその末恐ろしい力に気付くことができない、というのがまたこの物語が描く人の世の恐ろしさです。ヤコブやヨセフがまるで気付けなかったことについて既に観察を致しました。そして何よりも恐ろしいのは兄たちが悪意の虜になっている自らの姿に気付かない姿です。人は見えない悪の力に光を照らすことができない。長男のルベンがヨセフ救出を試み、ユダは彼を穴から引き出しますが、あまりに非力です。
人の歴史の中で、見えない悪と罪の力にこの上ない光を照らしなさったのが主イエスさまです。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。全ての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた」(ヨハネ1章)。そして主イエスさまがやがてご自身の口から語られます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」
私たちはこの見えない力に、悪の闇に光を照らすことはおろか気付くことも絶望的なまでに困難です。闇の中に光となって輝くことがお出来になられた人はイエスさまお一人です。そしてヨセフのように人の罪、目に見えない邪悪な力を一身に背負われて、十字架の上で全てを滅ぼすみわざを全うされたのです。私たちは主イエスさまの麗しい人としてのお姿を仰ぎ見て、私たちが本来あるべき姿を見せて頂くのです。私たちが目に見えない力に対して無力であることはもはや問題ではない、と神さまは力強く語られます。何故ならば弱いところに主イエスさまが入り込んでくださり、私たちの罪を背負われ、その全てを亡き者にしてくださったから。私たちは心からそのことを信じて感謝し、見えない闇の力と決別する信仰を告白して、その通りに歩み出すことが救いなのです。
3見えない力に囚われない生き方
さて、私たちはヨセフ物語を読みながら様々な場面でヨセフとイエスさまとがとても似ていることに気付かされます。見えない悪の力が渦巻くこの世にあって罪に染まらず、悪を忌み嫌い、神さまが開かれた道をひたすら進みゆくヨセフの姿は、罪の世にあって罪に触れず、御父の御心のみを見極めなさって、如何なる杯も飲まれ救いの道を開かれるイエスさまと重なります。そして私たちは、人の本来の幸いな生き方を示して頂くのです。見えない悪の力に囚われず呑まれず、それに勝る、否圧倒的に勝る神の御慈愛の力を見ずに信じてこの先も進み行きましょう。