「ヨセフ、夢見る男」
聖書 創世記37:1〜11
いよいよ創世記の学びも新しいステージに進み、ヤコブの息子の一人ヨセフに注目します。実に創世記の残りはずっとこのヨセフが歴史を牽引していきます。
第一回はヨセフの紹介です。彼はもう17歳、ユダヤ人の感覚ではもう立派な大人で、自分の仕事を持っていて、ということでしょう。ヨセフは、兄たちとともに羊飼いを生業としていたとあります。ただ、まだ手伝い程度の労力にしかなっていなかった辺りが気になります。
1悪を忌み嫌う男
さて早速不穏な空気が漂ってきます。彼は兄たちのなかでもビルハとジルパを母とするお兄さんたちの「悪い噂」を族長に言い付けたのです。結構今時の読者はこの辺りからヨセフの人間的な未熟さを敬遠するのですが、少なくとも聖書はその点については沈黙を保っています。ただ一つ明らかなことは、ヨセフという人物が悪を忌み嫌っていたという事実だけです。彼は兄たちの噂が悪いものだったので報告をしたのです。悪を忌み嫌う、これはヨセフ物語を読み進める中で鍵となる要点です。
もちろん悪い噂、悪い行いや犯罪を通報するときには知恵と配慮を要します。深く考えもせずに目や耳に飛び込んできたことを口から吐き出すものではありません。私たちもそのような場面に置かれたならば知恵を与えられて対応したいものです。でも、このエピソードの書き出しは決してそのような教訓を私たちに与えるために書き記されたものではありません。ヨセフについてとても大切な人柄を汲み取ることが肝要です。ヨセフの性分、それは悪に対する鋭い感性です。悪いことは嫌いなのです。そのことを心に留めて先を読み進めましょう。
2憎しみ・嫌悪は突然に
さて、ヨセフについて次に知らされること、それは一方では父ヤコブに溺愛され、他方では兄たちから著しく嫌われている事実です。そしてこの二つが直に関連しています。父が偏愛するので兄弟たちはヨセフを「穏やかに話せないほど」毛嫌いするのです。「あや織りの長服」など身に着けては羊たちを追うことも憚られるでしょう。あるいは17歳の彼が、お手伝いしかしていなかったのは父ヤコブの配慮の顛末だったのかもしれません。
この段落を読みますとなるほど兄たちの嫌悪感はヨセフの言動に基づいたものではありません。悪い噂の密告さえも、兄たちがこぞって彼を毛嫌いする理由として挙げられていないのです。敢えて言うならば、ヨセフは云われなく疎まれているのです。そしてこれからもそのスタンスでこの物語を読み進めることが助けになると思うのです。そうしませんと、容易に人格論ですとか、人間関係の処世術の話ですとか、枝葉の事柄に私たちの目が向いてしまい、ヨセフ物語のメッセージから目が逸れてしまうかもしれません。
閑話休題。弟に向けられた父親の熱い愛情に腹を立てた兄の話を思い出します。イエスさまが社会で忌み嫌われている人たちと一緒に楽しく食事をしている、といって文句を言う宗教家たちにお話になられた放蕩息子の譬え話です。放蕩の限りを尽くした果てに弟息子は我に返り、息子としてではなく使用人の一人として家で雇ってもらおうと腹を括って家に戻ったら、実は父親が首を長くして待っていてくれて、大宴会を催して迎え入れてくれたというお話です。確かあの話の中でも弟息子に一番よい服を着せて、指輪や靴まで用意していました。その様子を見ていた勤勉な兄が腹を立てたのです。その兄息子に父は、腹を立てるのではなく、一緒に弟息子を愛でてやってくれと宥める譬え話でした。あの譬え話で父親はいうまでもなく神さまご自身です。もちろん、ヨセフ物語の中で族長ヤコブが神さまを象徴していると言うつもりはありません。ただ、ヤコブの偏愛を責めるだけでは物語の流れを汲み取れずに終わってしまうのではないだろうか。ここに描かれているのは、ヨセフを溺愛する父ヤコブと、そのためにヨセフを忌み嫌う兄たちです。
3神のヴィジョンを見極める男
さて、本題に戻ります。このヨセフが夢を見たのです。しかも同じような筋書きと印象を与える二つの夢を彼は見ます。一つは畑が舞台です。畑で束をこしらえていたらヨセフの束が立ち上がり、兄たちの束がヨセフの束を囲んで伏し拝んだというのです。二つ目は11の星が、太陽と月と一緒になって、ヤコブを囲んで伏し拝んだ夢でした。前回は兄弟たちだけでしたがこんどは父親も、そして既に亡くなっているお母さんも夢に出てきます。太陽がヤコブ、月がラケルだろうと容易に想像できる夢でした。今度はヤコブがヨセフを窘めます。斯くしてヨセフは同じメッセージの含まれた夢を二つ見ます。これもまたこれからの物語で繰り返されることです。それは、夢で示されることが神さまからの大切なメッセージであることを意味しています。そうなのです。ヨセフは族長の時代にあって神からの幻をそのまま見ることができる人でした。これは実のところ彼だけに備わった特殊な賜物ではない、というのが福音のメッセージです。ペンテコステの朝ヨエル書が実現し、全ての信仰者に聖霊が与えられ、その結果人は夢を見、幻を見るように導かれているのです。その夢・幻があるので私たちは希望を抱き、また踏み出す力と志を頂いて前進することが許されているのです。夢はすぐに実現しないかもしれません。ヨセフの物語は痛いほどにその現実を私たちに突きつけます。しかしそれは決して私たちを失望させません。神は夢をお見せになるだけでなく、実現まで導かれるからです。