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「旅の、その先へ」[創世記連講52]

聖書 創世記35章1〜29節

ベテルへの御導きはディナの悲劇からの癒しの旅であり、同時に新しいステップへの歩み出しでもあります。そこで彼らはこれまで頼りにしてきた代物を全て土に埋めて決別し、神さまのみに従う決意を新たにします。「主は私の神となる」というかつての祈りの応えをヤコブは一族と共に得たのです。今まで慣れ親しんだものや習慣を手放すことは人間的に言って心細いことですが、主は早速周辺の町々に働きかけ、ヤコブ一族に害が及ばないように守ってくださいました。安心して信頼することが幸いです。

さて、彼らが土に埋めたのは不要になったもの、偶像の役割を果たすようになったものばかりではなかった、というのがこの章の記事です。彼らは敬愛する人々、信仰の模範となる人々と決別しなければなりませんでした。母リベカの乳母デボラ、最愛の妻ラケル、そして先代族長のイサクの三人との死別がこの章の基調となります。

この三人の死と埋葬は、ヤコブにとって名実ともに族長として独り立ちをするときとなったのです。そして神さまはこの新たなスタートを大いに祝福なさったのです。神さまはヤコブに現れてくださり、旅のその先に備えて下さったのです。神さまは3つのことをお示しになられたと整理できると思うのです。

1神の民の確立

神さまは改めてヤコブの名前が「イスラエル」(神が格闘なさる)であることを思い起こさせなさいます。しかしこの名はもはやヤコブ個人のものに留まらず、ヤコブの子孫を通して確立する神の民の名となるのです。ヤコブをとおして一つの国民(くにたみ)が、そして国家の群れが生み広がるとお約束になります。22〜26節に掛けて改めてイスラエル民族の土台となるヤコブの息子たちの名前が紹介されています。ここにはラケルがいのちに代えるようにして産んだベニヤミンの名前も刻まれています。神はご自身の民を召し集めなさり、その群れを祝福し、その群れを通してご自身を世にお示しになられるのです。私たちの時代に「教会」が集められているのはそのような神さまの御心の現れなのです。

2全能の顕現

続けて神さまはヤコブにお話になり、ご自身が「全能の神」であられることを改めて明かされます。かつてアブラハムにご自身のことを「わたしは全能の神である」と仰せになられた神さま、ヘブル語で「エル・シャダイ」と発音する御名を改めてお示しになられたのです。ヤコブがかつてエサウから逃げるように旅に出る際、父イサクから「全能の神がおまえを祝福してくださるように」と祝福の祈りを献げてもらいました。これまで耳にしてきた「全能の神」が今彼の前に現れなさり「わたしはあなたにとっても全能の神である」とご自身を現しなさり、祝福を保証してくださったのです。「アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える」。

全能の神さまの祝福、つまり果たされない約束のない、そういう種類の祝福は、世代が代わっても、一人一人直に授けられます。確かに祝福のお約束は変わることはありません。それでも神さまはアブラハムに語られたお約束を、イサクに繰り返し、さらにヤコブにも同じように繰り返して告げなさいます。それは神さまが生けるお方だからです。人は生きている限り、だれかと繋がることを求め、交わることを望み、一人でいることを良いと思わないのです。罪のために堕落してしまった人でさえ、そのような神のかたちを残しているのですから、全能の神さまはどれだけ他の人々と交わりを深め、慈しみを施し、信頼されることを喜ばれることでしょうか。神さまは、アブラハムに、イサクに、そしてヤコブに、一人ひとりにお近づきになり、一人一人とおことばを交わしなさり、その御交わりを善しとされる方なのです。

3見えない神への信仰

最後にもう一点目、神さまはあのベテルで「彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた」(13節)。かつて天に届くはしごが地上から掛けられている夢を見た場所で神さまは再び天に上って行かれたのです。この節は神さまの顕現の終わりを告げる節です。しかしヤコブにとって神さまが見えなくなられたということは、断じて神さまが居られなくなったということではない、今ではそのことをよく弁えているのです。顕現の完結はご臨在の喪失ではない。この真理を日々の歩みの中で頷くことができる聖徒方は幸いです。まさに私たちにとっての「エル・ベテル」の信仰です。

目に見えるもの、手で触れられるものはやがて見えなくなります。どれほど尊くても、存在さえもまるで野の草のように失せてしまいます。ヤコブはここで3人もの敬愛する人々を埋葬します。彼らは土に帰ります。それだけに、目の前から見えなくなっても、そこに依然おられる御臨在であられる神さまを信頼して歩むことはヤコブにとって人生の鍵となる信仰でした。

イエスさまがトマスに最後に教えなさった信仰のレッスン、エマオの途上でイエスさまに出会った二人の弟子たちの心燃える経験、使徒ペテロの手紙の聖言、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており」(1ペテロ1・8)、ヘブル書の説教者のメッセージ、「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(11・1)私たちお互いの歩みがこの信仰によってますます生き生きとしたものとなりますように。

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