「神の民の痛み」[創世記連講51]
聖書: 創世記 34章1節〜35章1節
起きた事件は一つです。極めてショッキングな出来事です。しかし、同じ事件を二つの世界から見つめる記事だと言えます。つまりヒビ人シェケムの一族から見る世界と、ヤコブ一族から見る世界。そして驚くほどに異なる出来事に写っている。その様子を生々しく中継する記事なのです。
1ヤコブ一族が受けたこの上ない痛み
ディナが巻き込まれた事件はまさに「辱め」でした。ヤコブは愛する娘が汚されたとことばもでません。ディナの兄弟たちも「心を痛め、激しく怒った」のです。創世記の記者もシェケムのしたことを「恥辱となること」「してはならないこと」だと訴え、ヤコブとその一族の痛みの深さに共鳴をします。
彼らの痛みや悲しみ、憤りは単に人として絶え難いものだというだけでなく、神さまを信じる者として味わう深い痛みだと言えます。神さまを信じ、礼拝し、愛するが故に深く刻まれる痛みと苦しみ。それは世の慰めや償いでは到底癒えないもの。実に私たち自身の術ではどうしようもないほど深いものです。息子たちは残忍な報復に走りますが、痛みが癒えた様子はありません。
これは私たちが世にあって信仰者だからこそ受ける痛みや苦しみ、辱めや悲しみと重なるところがあります。そういう意味で私たちはヤコブ一族に心から共感し同情するのではないでしょうか。そして彼らに寄り添うようにして「どうしたらディナの、そして一族の痛みを取り除くことができるだろう」と思うのではないでしょうか?
2ヒビ人ハモル一族が見た好機
ところが同じ事件をヒビ人シェケムと彼の一族の目から見る世界には驚くほど異なる場面が広がっています。確かに冒頭ではシェケムがディナを目にして、誘拐をし、乱暴を働いたと言われていますが、3節に読み進めますと早速こうあります。「彼(シェケム)はディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、優しく語りかけた」そしてさらに自分の妻にしたいと父親に申し出るのです。しかも8節に読み進めますとシェケムの父ハモルは息子のしたことについて懲戒をするどころか、一緒になって「息子シェケムは、心からあなたがたの娘さんを恋い慕っています。どうか娘さんを息子の嫁にしてください」とヤコブのところに挨拶に来ているのです。ハモルはさらにシェケムとディナが結ばれるならば、2人のためになるだけでなく、お互いの一族についてもよしみになれて、無駄な争いもなく、土地もお互いに自由に活用できるし、結婚に際しては結納も弾ませますから、というのです。まるでヤコブ一族にとっても良い事尽くしであるかのような口っぷりなのです。そしてここからがぞっとするところなのですが、ここまで読みますと少なからずの読者がハモルの言い分にも一理ある、と考えを改めるのです。少なくともハモルの一族は皆、この事件についてハモルに共感をしています。それでヤコブが提示する条件ならば何でも受け入れるというのです。つまりはハモル・シェケム一族の人々にとっては事件ですらありません。下手をすれば棚ぼたのチャンスくらいに考えている。
この二つの部族はいつまでも歩み寄る兆しがありません。歩み寄ることができないのです。
3すべてをご覧になる神さまの御目…そして語り掛け
ヤコブはことばも出ません。実際ヤコブの沈黙がしばしば注目されます(大抵否定的に!)。しかしもっと印象的な沈黙があります。それは外でもない神さまの沈黙です。これまでヤコブと神さまとの間には親密なお交わりが保たれてきました。そのお交わりが途絶えた兆しなど全くありません。神さまはヤコブとその一族をこの上なく慈しみ絶えず共に歩まれているのです。ですから、沈黙なのです。ディナが土地の娘たちのところに出かけて行ったことを無防備だと責めなさらない。ヤコブの態度について旗色が定まらないと非難なさらない。そして驚くべきは息子たちの残忍な報復についても「何故わたしに聞かなかったのか」と問い質しなさらない。そして彼らが行き詰まったときに、行くべき道を優しく指差しなさるのです。「ベテルに上りなさい」(35章1節)。
彼らが危険や不安から解放され、痛みと悲しみ、憤りや屈辱を癒す場所へと神さまは導かれたのです。そこはヤコブにとっても信仰の原点でした。ヤコブはその聖言に癒されるのです。「私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
4結びに代えて
イエスさまの十字架の場面が思い起こされます。あの日、2人の強盗が最も不名誉な処刑を受ける予定になっていました。この2人は自らの悪業の末に招いた屈辱を受けながら死ぬのです。ところが急遽その2人に寄り添うように罪のない1人のナザレ人が彼らの間に割り込み、3人分の屈辱と非難と罵倒の全てを受けました。その2人だけではありません。主イエスは同じようにして全ての人の屈辱を取り除き、闇と汚れを洗い流し、罪を赦してくださるのです。
それだけではありません。イエスさまご自身も十字架の上で父なる神に叫びを上げなさいました。「わが神、わが神、どうしてわたしを御見捨てになったのですか」2人の強盗のうめきとは比べものにならないほどの悲しみに、父なる神は沈黙を保たれるように見受けられました。しかし神さまは断じて沈黙を貫かれません。三日目にイエスさまを死者の中から、屈辱と闇の中から、導き出され、いのちを与えられ、神の右の座に引き上げなさったのです。この救い主が私たちを暗闇と痛みから導き出してくださることを期待すべきです。