「明けの明星が心に昇るまで」
聖書 ペテロの手紙第二 1:12〜21
古代ローマの軍人たちは「メメント・モリ」を合言葉にしたと言われています。「死を覚えよ」という意味。軍人の覚悟を伺わせるフレーズです。ところがやがてこのフレーズは教会で囁かれるようになります(聖書には出てきませんが!)。教会はその誕生のときから、様々な迫害に見舞われ、生命さえも脅かすこともあったのです。無論いつもそうだったわけではありません。むしろクリスチャンであることが社会的ステータスとなった時期もあります。ただ、キリスト者たちは世がいつでも、そしていともたやすく手のひらを返して、福音に牙を剥く闇を秘めていることを良く弁えていましたから、「メメント・モリ」と言って戒め合ったのです。
今朝お読みしました手紙は主イエスの弟子の1人ペテロによって書き送られたものです。彼もまた、ラテン語のことわざは記しませんが、1人のクリスチャンとして、自らの死という現実と向き合っています。そして死を前にして彼に続いて同じ信仰の道を踏みゆく後続の兄弟姉妹たちに「思い起こさせる」べき真理があるのでこの手紙を書き送っているのです。兄弟姉妹たちが思い起こす事で「奮い立つ」ためだとペテロは述べます。私たちが信仰者として奮い立つためのメッセージ。是非とも耳を傾けたいものです。特にこの朝は召天者記念礼拝となっております。信仰の先輩たちがどのようなメッセージに奮い立たされて信仰の歩みを全うされたのか、目を留めて私たちの信仰の動力とさせて頂きたい、そう願いながら聖言をお読みしております。使徒ペテロは何を思い起こさせようとこの手紙を書き送ったのか。12節では「すでに与えられた真理」という聖言で言い表され、15節ではさらに「主イエス・キリストの力と来臨」と言われています。私たちを奮い立たせるほどの真理について今朝は三つのことを取り上げて、この信仰を全うされた先達の歩みを思い起こし、同じ主イエスを仰いで歩みを進めて参りたい。
1額面通りの真理
この真理について使徒ペテロが第一に思い起こさせていますのは、「主イエス様の力と来臨」が額面通りの真理だという点です。つまり「巧みな作り話」ではないということ。作り話にも色々あります。欺くための作り話、人を楽しませるもの、逆に悲劇のように心を揺さぶるもの。ペテロはこの真理、主イエスの御力とご臨在は巧みな作り話ではない、と断言します。イエスさまが仰せられたこと、なさったことは一つ残らず額面通りに受け入れ、信じ、期待して宜しいのです。人が人生をその上に据えても十分に支えられる真理。その確信をもって聖徒たちが奮い立つように、信仰の歩みを進め全うするように励ますのです。私たちの先達もそのような証詞を残されました。
2天来(神から)の真理
それからペテロはこの真理について、その出どころが神さまだということを思い起こすように勧めています。ペテロは主イエスさまとご一緒した頃の出来事から変貌山の出来事を思い起こしています。そのとき天から声がして、主イエスさまについて「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」と語ったのです(マタイ17:5他)。この出来事でペテロは、主イエスさまは間違いなく天より遣わされた方だということ、主がこれまで教え諭してこられたことの全て、イエスさまがなさったあらゆるみわざ一切の源は今響いた御声の主であられる神さまにある、ということを確信したのです。
人が築き上げた価値観や善悪の物差し、黄金律等々はそれなりに意義があるでしょう。しかし自らの人生を据えるだけのものであるか、問われます。死を眼前にして次の世代に託すに値するかと問われたらどうでしょうか。ペテロは、主イエスは神から遣わされ、主を通して与えられたあらゆる賜物は神さまを源としていることを証詞して、神を仰ぐ民を奮い立たせようと試みているのです。
3聖言に刻まれた真理
私たちを奮い立たせる真理、私たちはこの真理をどこに見出すのでしょうか。もちろんイエスさまを見上げることで、ですが、私たちはペテロとは事情が異なります。ペテロたちは山の上で直に主の姿変わりを目撃し、天より神さまの御声が響くのを耳にしましたが、ペテロの手紙を受け取った教会の兄弟姉妹たちにはそのような経験はありません。そして私たちもまた然り。しかし、ペテロは全く動じません。神さまは今、主にある兄弟姉妹たちのために、19節「さらに確かな預言のみことばを持っています」と断言します。私たちの信仰の歩みを奮い立たせる真理は、聖書の中に刻まれていて、その聖言に耳を傾けるときに私たちは主イエスさまを見上げることになるのです。私たちはさらに新旧約聖書を与えられ、聖言をとおしてイエスさまを仰ぎ見るのです。私たちの先輩方はそのようにして信仰生涯を全うされました。
結び
やがて夜が明ける、とペテロは続けます。暗黒は過ぎ去り明るい光に私たちは包まれる。そしてその中心に輝くのが「明けの明星」です。ペテロはやがて主イエスさまがお出でになられるときを思い描きながらこの聖言を書き送っているように思われます。そのとき初めてイエスさまをこの目で仰ぎ見る輝かしさを想像し、あるいは死を越えて召された先で、イエスさまにまみえる先輩たちの喜びを思い描きながら「明けの明星」を描いています。でもそれだけではない。たとい私たちの今の現実が夜のとばりのように暗くても、聖言によって私たちの心に主が浮かび上がり希望の光を放つのです。それで私たちはこの世にあって光を見出し、光に照らされて奮い立ち、前に進む事が許されます。