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「日々新たないのち」

聖 書:哀歌 5章1〜22 節

今年の上半期感謝礼拝をこのような形で守ることが許された恵みを感謝しなが

ら、聖言に心を向けております。哀歌は、エルサレムの崩壊を嘆く預言者の歌

と祈りです。呆然と荒れ廃れた町を目の当たりにする預言者は(1章)、それが

神のみわざであることに失意を深めます(2章)。しかしその中で、神の恵みと

憐れみを思い起こします。預言者がこれまで知ってきた神の慈しみです(3章)。

彼は再び町の荒廃を直視して胸を痛めますが(4章)、今や預言者の目線は大き

く変わり、彼はもはやエルサレムのことを一つの町としては見ていません。彼

は町のために祈っているのではありません。自分が繋がっている共同体の一部

となって祈っているのです。そして彼は希望を抱きながら哀歌を締めくくるの

です。今朝は特に19〜22節を改めてお読みしましょう。

1 私たちの希望の源

預言者は神さまを見上げて祈ります。そこには私たちの希望の源が輝いていま

す。神さまは「とこしえ」の方、その治めなさるのは「代々に続く」。永遠に

変わらないお方を預言者は見上げて希望を抱いたのです。彼の目の前にはそれ

こそ変わり果てたエルサレムの町が広がっています。かつての豊かで生き生き

としたエルサレムは今、変わり果ててしまった。

それでも仰ぎ見ればとこしえからとこしえまで御座に着いておられる主がお

られる。人の世が代替わりを重ねても、変わらずに続く支配が神さまによって

保たれているのを預言者は見上げて、変わらないお方に祈り、信頼し、期待す

ることの確かさを告白するのです。ヘブル書の説教者も同じメッセージを私た

ちに告げておりました。信仰の創始者であり完成者である主イエスさまから目

を離さずにおりますと、そこには昨日も今日も、とこしえに変わることがない、

イエス・キリストがおられる。惑わされてはいけない。様々な教えに惑わされ

てはいけない。私たちの身の回りの変化に惑わされてはいけない。この世は移

り変わり、そして何事もやがては廃れていきます。しかし、とこしえに御座に

着かれる方がおられて、私たちはその方を仰ぎ、その方に期待と信頼をし、そ

の方から恵みと祝福を変わることなく受け続けるのです。

2 私たちの希望の特質

この預言者が廃墟の中で祈り求めたことが21節に記されています。一言で言う

と回復です。「帰らせてください」「帰ります」「昔のように」。昨今しきり

と「新しい生活様式」というフレーズで耳にします。聞こえは良いのですが、

どうしてもこれまでの古い生活様式はあきらめろ、ということの裏返しでしか

ないような印象が拭えないのです。と言いますのも、福音のメッセージはまさ

に「回復」なのです。「回復」は福音の中心にしっかりと据えられているメッ

セージです。そして究極の回復が私たちと神さまとの間柄を和解させ、回復さ

せ、私たちを神さまがお造りになられた人本来の姿に回復させるものではなか

ったでしょうか。

私たちは回復を断じて諦めてはならない。私たちは心を注ぎ出して、この預

言者たちのように、町中を巻き込んで「私たちを帰らせてください」「私たち

に回復をもたらしてください」と祈ることが許されているのです。私たちに与

えられた福音に諦めを含ませた「新しい生活様式」は似つかわしくありません。

ただ、私たちが回復を求めるときに、それは単なる過去の再現ではありませ

ん。神さまが私たちの祈りに応えて与えてくださる回復にはそれこそ神さまな

らではの「新しさ」があるのです。ですから預言者はこう祈ります。21節。

「昔のように、私たちの日々を新しくしてください」壊れたところを修繕する

だけの回復ではありません。神さまのみわざには必ず新しさがあるのです。3

章で既にこの預言者は神さまのみわざの新しさを弁えています。

「実に、私たちは滅び失せなかった。 主のあわれみが尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。」

今年の上半期を締めくくろうとします私たち、預言者とともに祈ろうではあ

りませんか。「あなたのみもとに帰らせてください。昔のように、私たちの

日々を新しくしてください」と。そして神様からのお応えを待ち望みましょう。

3 私たちの希望の熱意

最後に22節をお読みして締めくくりましょう。

「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなけ

れば。」

この聖言は神さまが赦してくださるかどうかわからない、という不安からこぼ

れた祈りではなく、預言者の熱意と覚悟を表す祈りです。かつてアブラハムが

神さまの前でロトのために立ちはだかったように、使徒パウロが同胞のためな

らば自分が滅びてもいいと書き表したように、際限のない熱意を最大限の聖言

で言い表しているのです。ダメ元の祈りではありません。どうしても応えて頂

かなければならない祈りと訴えとして神さまの御前に御献げした哀歌であった

ことを最後の聖言が証ししています。これが預言者の「私たち」のための祈り

でした。主にある群と一つになり、その回復と祝福を祈る。その恵みの中に身

を置いて私たちも祝福に与る。そのような下半期のスタートを切りましょう。

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