「さあ、旅を続けて」[創世記連講50]
聖書:創世記 33章1-20節
今日巷では父の日がお祝いされています。私たちが創世記で学んでいますヤコブも子宝に恵まれ、父親として、また1人の族長として確率していく様子を見せて頂きながら、育み給う神の恵みを学んでいます。今朝はそのヤコブが20年ぶりに兄エサウと再会を果たす場面です。
出来事の全体は3つぐらいに区切って読み返すと比較的物語の要点も整理しやすくなるのではないかと思います。1〜7節には再会の場面が、8節辺りからヤコブがエサウに贈答品を渡す場面が描かれています。そして12節からは再会を果たした2人がさらに旅を続ける場面です。それぞれの場面に私たちが今朝聞き取るべき語りかけが込められていると思います。
1再会と神の恵み
ヤコブはひたすら平伏しながらエサウに近づきます。無論エサウに対する申し訳なさや気後れはあるでしょうが、それと同時に、あるいはそれ以上にヤコブには「恵んでくださる神さま」への依存がありました。ヤコブ自身は「すべての恵みとまことを受けるに値しない者」ですが、神さまは妥当な理由も計算もなくただただ与えてくださった、与え続けてくださっているに過ぎないのです。
私たちは礼拝に集まるたびに頌栄をお献げし「すべての恵みのもとなる御神を、造られし者よ、いざ讃えまつれ」と仰ぎます。神さまが何よりも恵みの源であられることを確認するのは礼拝の大切な営みです。その事実を信仰を持って受け止めるときに私たちは、立ちはだかる困難にも、未だ見えない将来にも立ち向かっていけるのです。平伏しながらでも、打ちのめされながらでも、主にあって前に進んでいけるのです。
2和解と恵みの贈り物
情熱的な抱擁と涙で彩られた再会はさらにヤコブからの贈り物で麗しい場面になります。ヤコブは五百頭を超える家畜の贈り物に少なくとも二つの思いを込めています。ヤコブはこの贈り物について二つのことばでエサウに説明をしています。一つは10節の聖言です。カギ括弧の中だけ御読みします。
「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物を御受け取りください。」ここに「贈り物」と翻訳されていることばがありますが、もとのことばでは「ミヌカー」と発音することばで、所謂神さまへの「ささげ物」あるいは「供え物」を意味します。神さまの前に集まるに当たって、神さまを悲しませることを犯していなかっただろうかと反省をし、神さまにお詫びをしてその心を表すために献げました。ミヌカーは神さまとの和解のために献げられたものです。ヤコブがエサウに贈ったこの「贈り物」は主にあって和解を望んでいるヤコブの祈りであったのです。イエスさまが御弟子さんたちに教えなさった礼拝の心得の一つを思い起こします。マタイの福音書5章の聖言を御読みしますので耳を傾けてください。
「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに(つまり礼拝を捧げようとするときに)、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」
ヤコブもまた兄に「贈り物(ミヌカー)」を届けて和解・平和を望んだのです。
ヤコブはエサウに「兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです」と言います。これは断じておべっかではありません。文字通りの意味なのです。ヤボクの渡しで神と顔と顔を合わせたヤコブは今兄エサウを見上げて、同じ輝き、同じ慈愛、同じ恵みを見たのです。エサウの歓迎は神さまの豊かなご慈愛と恵みを表したものだったとヤコブは感謝しているのです。
それからヤコブは11節でその贈り物について「祝いの品」だと言い表します。こちらはもとのヘブル語ではベラカーということばです。ベラカとは「祝福」という意味のことばです。ヤコブの贈り物は和解の祈りだけでなく、神さまの祝福の中にエサウを巻き込む贈り物でした。ヤコブがこの20年、重ねて来た経験の根元に絶えずあったのが神さまの祝福でした。神さまもヤコブに現れなさる度にこのことを確認なさった。杖一本で始まった旅が守られたのも祝福、旅先で家族を形成したのも祝福、不当な扱いを受ける中で富を豊かに加えられたのも祝福、この祝福の世界に兄エサウも巻き込まれていくのです。エサウがヤコブからの贈り物を受け取ったのはこのときでした。彼はヤコブをとおして神さまの祝福を受け取ったのです。
3続く旅
神さまの祝福の中に飲み込まれた兄弟とその一族は旅を続けます。エサウはこの後ヤコブと共に暮らすことを提案します。これも一つの結末でしょう。けれどもヤコブは丁重にその招きを断りヨルダンを西に渡ってシェケムに向かいます。それは彼が神さまの約束に一貫して信頼していたからです。ベテル神さまが「生まれた国に帰りなさい、わたしはあなたとともにいる」と約束されたことをヤコブは尊んだのです。彼はそこで土地を購入し宿営を設け、生活を始めるのです。ヤコブは改めて礼拝を献げ、神さまを見上げます。そして「イスラエルの神は神」といって築いた祭壇を名付けます。つまり私の神さまは実に神さまであられる。この後その祭壇を目にし、その名前を聞くすべての者が、ヤコブの神は実に生けるまことの神であられ、ヤコブの旅路を最後まで導かれたと認めることができるように証を立てたのです。
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