「神の顔、人の名」 [創世記連講49]
聖 書:創世記32 章22〜32 節
ヤコブはいよいよイサクの家のあるパレスチナ地域に辿り着こうとしています。
自分の一族と資産とをいくつかのグループに分けて、順繰りにヨルダン川を渡
らせ、最後に一番身近な家族、妻たちと子どもたちを連れて川を渡らせ、最後
に自分が渡ろうとしたところを、「ある人」が現れてヤコブと格闘を一晩中した
というのです。力関係から言うと突然現れた「ある人」の方が数段上手であっ
たことも読み取れます。彼が神ご自身であられたことがすぐに明かされます。
でも興味深いことに、神さまはこの格闘はヤコブが勝ったと言われた。
そしてヤコブに祝福を与えて立ち去ろうとしているのです。他方でヤコブは神
さまのお名前を知りたいと問い合わせます。神の名前は明かされませんが、彼
は神の顔を見て救われたことに気付くのです。この一連の出来事はまたしても
神さまがヤコブを祝福なさる一場面なのです。そしてその祝福を今朝私たちも
読み解かせて頂き私たちへの神さまの祝福を期待したいと思います。
1 夜通しの格闘〜ヤボクの渡し
ヤコブがヤボクの渡しを渡るのは明らかに彼と彼の一族にとって大きな局面の
変化になります。そのようなときに、神さまはまたしても身を乗り出して、ヤ
コブに触れなさるように現れなさったのです。
その中でかみさまが「ヤコブに勝てないのを見てとって」と言われたの
は注目に値します。神さまは夜明けまでヤコブの力と勢い、闘争心や野心、不
安や恐れの全てを全身に受け止めなさったのです。夜が明けるまで神さまは、
途中でもうよいと言わずに向き合われたのです。そして夜が明けて陽が昇り、
再び前に進むときが来ますと、人のそれまでの格闘を顧みてくださり、報いて
くださるのです。
私たちが格闘をするとき、祈りの中で格闘をしたり、様々な苦しみや試
みの中で格闘をしたり、誘惑と戦ったり、罪の咎や後悔と戦うときに、神さま
は私たちの前に現れ、最後まで見届けるように取り組んでくださいます。そし
て人が朝日を浴びて新たに光の中を進めるまで見捨てなさらず、人の格闘に向
き合ってくださるのです。
2 ヤコブの新たな名前〜イスラエル
神さまは格闘の末、祝福を与えヤコブに新たな名前を授けなさいます。「イスラ
エル」とは「神は格闘される」あるいは「神と格闘する」という意味。人は、
神さまが私の格闘に向き合ってくださる方だということを「イスラエル」の名
が呼ばれる度に思い起こすのです。
しかもこの新たな祝福はヤコブ個人に限定されたものではなく、彼を通して
夜空の星のように、海辺の砂のように広がるものです。この段落の冒頭に
は息子たちが11 人数えられています。決して女性を数に入れないということで
はありません。そうではなくて、あと1 人これから加えられて、12 部族つまり
イスラエルの民の全貌を見据えて読むように、私たちは招かれているのです。
これから末広がりに拡大していくイスラエルの民族、さらにいえば同じ神さま
を信じて仰ぐ信仰共同体、私たちの教会をも視野に入れて読まれるべき物語な
のだということです。神さまは格闘なさる方。ヤコブのために夜通し格闘され
た主は、イスラエル民族のために戦ってくださる方。そしてイスラエルの名を
知る全ての者たちに対して奮闘を惜しみなくなさる方。その上で「あなたが勝
った」と言って戦いに報いてくださる方です。
3 ヤコブの救い〜ペヌエル
ヤコブは新たな名前を頂いて二つのことを順繰りに応答しています。第一にヤ
コブはこの人、いやこの神さまの名前を教えてください、と願ったのです。ど
うしてそう願ったのかは明らかにされていませんが、人はとかく神さまの「正
体」を知って自分の理解の枠の中に収めようとしてしまうところがあるようで
す。そして全知全能のお方を私たちの限られた理解の中で小さくしてしまうの
です。神さまはときに私たちをそのような過ちからお守りになるために、私た
ちに最も相応しい形でご自身を顕してくださるのです。ヤコブに現れなさった
神さまはお名前や聖言だけでなく、ご自身の顔をお見せになりました。
ヤコブは主の御名を教えてもらえなかったことを不服に思うどころか、
「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」と言って声高
に喜びを隠しません。そしてその場所を「神の顔/ペヌエル」と呼んだのです。
これがヤボクの渡しでヤコブがした第二の応答でした。神さまはお名前を明か
さなくても、ご自身をお見せになる方だ、とヤコブは深く記憶に刻みます。そ
して彼はその経験を自らの救いだ、と証詞したのです。「私のいのちは救われた」。
今日までイスラエルの民がももの関節の上に肉を食べないことに言及
する著者は、この証詞がヤコブ個人に留まるものでなく、すべての人々に引き
継がれる救いだということを告げています。
「神は格闘をされる」と読みながら、主イエスさまの格闘を思い起こし
ます。40 日荒野に導かれて誘惑と格闘なさった主イエスさま、反対や誤解、敵
意や疑いと絶えず戦われたイエスさま、ゲッセマネの園での祈りの格闘、そし
て十字架のお苦しみ、主は最後まで格闘をされました。そして闇に潜む私たち
に勝利を与えてくださったのです。
私たちはイエスさまの十字架とよみがえりを振り返りながら、絶えず私たちの
ために執成の格闘を続けなさる主を見上げて、日々の生活の中で祝福を経験
することが許されているのです。その中で新しい名前を頂きながら前に進んで
参りましょう。