top of page

「神は常に私の傍らで」 [創世記連講47]

聖 書:創世記31 章22〜55 節

神さまの後押しと祝福を頂いてヤコブたちはラバンに見つからないようにこっ

そりハランの地を離れます。色々と話題が移っていくように見えますが、私た

ちが目を留めておくべきところは一つです。それは他でもない神さまご自身、

特に審判者であられる神さまを仰ぎながら今朝のエピソードを読みますと、メ

ッセージが浮き彫りになります。ヤコブたちはラバンの家から旅立ち、3日後

に気づいたラバンが一族を引き連れて追跡をして7日目に追いつきます。ラバ

ンはヤコブの不正を責め、ヤコブはラバンの不実をとがめます。そしてその騒

動の中でラケルは父ラバンのテラフィム(当時の家の守り神のようなものだと

されている)を盗み出すのです。まるで裁判官のいない法廷のような攻防の始

まりです。そしてそのようなカオスの中に神さまは審判者として臨まれました。

1 審くことを許されないラバン

ラバンはヤコブに対して詐欺(26節)や窃盗(30節)で訴えます。読者

たちの間でもこの案件は意見が割れるところでしょう。ラバンの方に正義があ

る、と判断する人々もいるでしょう。狡猾な手腕を駆使したヤコブや、実際に

テラフィムを盗んだラケルのことを考えればそうかもしれません。反対にこれ

までラバンがやってきたことを考慮に入れたならば、ヤコブが密かに逃げなけ

ればならなかっただろうし、ラケルにしても父の家でよそ者扱いされ、自分た

ちの財産まで浪費されてしまったのだから、テラフィムくらい大した事ではな

い、と擁護する人々もいるでしょう。果たしてフェアな判決を下すことができ

るでしょうか。

そのとき神さまがまたしても乗り出してくださり、ラバンの夢に現れな

さって「自分で審判をくだしてはならない」と戒めなさったのです(24節)。

テラフィムの窃盗を訴える場面でも再び「あなたは気をつけて、ヤコブと事の

善悪を論じないようにせよ」との戒めを思い起こさせなさったのです。神さま

がラバンに「あなたが裁くのではない」と戒められたのです。更に神さまはラ

バンのテラフィムが発見されないようにラケルに咄嗟の知恵を授け、ヤコブが

審判を受けないように守られます。

2 審くことを神に委ねるヤコブ

今度はヤコブがラバンに対して怒り彼を咎めます。追い詰められた。ヤコブの

唱えた訴えは41節「何度も私の報酬を変えました。」契約違反、約束不履行と

でも言いましょうか。確かにその通りでした。私たちも一緒にこの物語を丁寧

に読んできましたから、ヤコブの訴えが決して偽りではないことを頷けると思

うのです。

ただ、ヤコブもまた、ラバンと同じように、自分の正義を訴えることは

しませんでした。その代わりこう述べたのです。

「神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」

ヤコブは自らのこれまでの経験を踏まえて、さばきをなさったのは神さまだと

証詞をして、したがって自分が何か手をくだしたのではないと告白したのです。

それで彼は「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか」とラバ

ンに迫ることができたのです。

事の善悪を判断することは必ずしも簡単なことではありません。イエス

さまもご自身のお弟子さんたちに「さばいてはいけません」(マタイ7.1)と

戒められました。それでは私たちは正義を諦めてしまう他ないのでしょうか。

そうではありません。私たちに代わって主ご自身が乗り出して事の善悪を定め

てくださるのです。もちろん私たちは信仰者としていつでも正義を表そうと努

めるでしょう。しかし、世にあっては必ずしもその通りに進まないものです。

そして心痛むことではありますが、ときには私たち自身、これが正義だと確信

していたことがそのように受け止められなかった、ということもあるでしょう。

そのようなときに私たちはどう、神さまの前で立ち振る舞えばよいのでしょう。

さばきをなさるのは神さまだと告白して委ねること。またヤコブのように、正

義を目の当たりにしたならば、へりくだって「神は私の苦しみとこの手の労苦

を顧みられ、さばきをなさった」と告白することです。

3 審判をくだされた神の公正

43節からはある意味、神さまの公正なおさばきが明かされています。キーワー

ドは「証拠」「証人」「あかし」といった言葉です。一方の主張だけが重んじ

られる事がないように、歪んだ訴えがまかり通る事のないように、本当の法定

なら裁判官が、公正な目で見渡して、見張りとなり、証人となって正義と公正

が確かに実現することを見届ける。神さまはご自身のみわざをもって正義をお

示しになられ、ご自身が「証人」となられることを告げなさったのです。その

ことを両者が忘れないために石の塚が立てられ、柱が立てられたのです。

私たちには石塚に勝る確かな「証拠」「証人」主イエスさまの十字架と

空の墓が与えられています。ご自身この上ない不当な審判により十字架につけ

られ、私たちの不条理を取り上げてくださる。その主にいのちを与えなさった

神の御力が新しい一週を歩む私たちを力づけるのです。主は我らの傍らに立ち、

絶えず私たちを正しい道へと御導きくださいます。

Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page