「この人は大いに富み」 [創世記連講45]
聖 書:創世記30 章24〜43 節
いよいよヤコブが再び舞台に登場します。ヤコブの生涯を学びながら私たちは
ある意味初めて、神さまは本当に「星の数、砂の数」ほどにまで子孫を増やし
なさるおつもりなのではないか、と感じられるエピソードです。ヤコブ一人を
通して一気に男の子・女の子を合わせて12 人の子どもたちに恵まれ、いよいよ
彼は一族としての頭角を現し「このようにして、この人(ヤコブ)は大いに富
み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった」
(43節)場面を読みました。
「大いに富む」(ファラツ)ということばがヘブル語では冒頭に記され、少し
前に神さまがベテルの夢の中で「あなたの子孫は地のちりのように多くなる
(ファラツ)」と約束されたときと同じことばが繰り返されます(28:14)。
この一連の出来事をとおして神さまはご自身のものに祝福を約束されるだけで
なく、祝福を実現なさる方だということをお示しになっているのです。
ラケルと結婚をするために合計14 年ラバンに奉公したヤコブはいよいよ故郷に
帰りたいとラバンに申し出ます(25 節)。これは単に家族がが恋しくなった
という程度の話ではなくて、神さまが自分の祖先、そして子孫に与えてくださ
った土地で暮らすのが御心だというヤコブなりの信仰と頷きがそう願わせてい
ます。
その要望に対してラバンは小聡明(あざと)い返事をします。一方ではラバン
の富はヤコブを通して神が祝してくださったことを認めます。裏を返せばヤコ
ブは折あるごとに祝福の賜物は神から賜ったものだと証詞をしていたのだろう
と想像できます。これはある意味ヤコブがラバンと一定の距離を空けていたこ
とも意味します。彼が祝されるのはラバンのおかげではなく、神の恵みだとい
う信仰告白です。ラバンはこの真理を占いによって(経験によって)弁えてい
ると認めます。
しかし他方でラバンはヤコブを故郷に送り出すかと言えば、そうはせず、ラバ
ンはヤコブに「報酬を与える」と切り返したのです(28、31 節)。彼はヤコ
ブの祝福の故に自分も富を得ていることを悟り、彼を手放すことは富を手放す
ことになると計算をしたのです。ならば、報酬を支払ってでも富の源を手元に
置いておくことが得策だと考えたのです。神さまご自身ではなく、神さまが
与えなさる良き賜物だけに目と心が傾く姿。そして神さまに対してそのように
しか向き合うことができませんと、今度はお互いに対しても同じような向き合
い方しかできなくなる、実に乏しい人間関係。ここにも戒めが込められている
とは思いますが、今朝は先に進みましょう。
ラバンの返答に対してヤコブは、ラバンの報酬には手をつけず、さらに故郷に
帰る希望はそのまま保ちます。彼はさらに奉公をしてラバンの家畜の世
話をすると言うのです。そしてその労働の報酬として、家畜の一部を頂くと逆
に提案をします。ラバンにしてみればこれほど条件の良い話はありません。た
だ彼は自らの財産が少しでも犯されないよう周到な備えをします。
ヤコブにもアジェンダがありました。特殊な植物を使って羊やヤギの繁殖を見
事に管理・促進させ、その結果ヤコブの家畜の群れはラバンのそれと比べても
著しい勢いで増大していったのです。それで43 節にたどり着くのです。
今朝のエピソードはヤコブとラバンを並べて私たちに語り掛けています。どち
らも祝福の源であられる神さまを知っており、どちらもその神さまの祝福に与
った成功者です。またどちらも知恵と力の限りを尽くして富むことを追求した
族長たちです。どちらもチャンスを逃さないタイプだという点では似ているよ
うに読み取れます。どちらも憎めないところがありますが、それならそのまま
私たちの日常の模範になるかと言えば、その辺りも微妙な二人です。
ただ、一点ヤコブの生き様には、神さまを仰ぎ、神さまの語り掛けに応答する
流儀が見出せます。神さまが現れなさるとヤコブは目を留め、耳を傾けるので
す。そして神さまが祝福を約束されると心底期待をするのです。神さまが指さ
しをなさるとそれに従うのです。今朝のエピソードもその点がヤコブとラバン
とでは大きく違いました。ヤコブは神さまの祝福の土地、ベテルで「あなたを
この地に連れ帰る」と約束された神さまに期待してのラバンへのリクエストで
した。ラバンもその点は理解していました。しかしラバンはそれ以上神さまに
近づかないのです。ヤコブのおかげで主の祝福を受けている。それ以上ラバン
は神さまに近づかないのです。神を知り、神に出会おうとは望まないのです。
私たちの目と心はいつでも与えてくださる神さまを仰いでいることが肝要です。
そうするときに、私たちは祝福や富が目の前で積み上がっていくときに、貪欲
にならず、おごらず、すべての源であられる主を崇めることが許されます。
また私たちの目がいつでも祝福の与え主を仰いでいるならば、私たちはその祝
福が目の前から取り去られたところで、うろたえる必要がなくなります。私た
ちは全ての源に目を留めているからです。ラバンは滑稽なくらいにその対極に
いた人物です。
母の日を祝う聖日です。神さまから授かったいのちを育む母たちを私たちは
ここ数週間創世記の中でも見せて頂きました。主イエスもご自身を雌鳥に喩え
られたことがありますが、私たちはすべての栄光を祝福と富の源であられる
主に帰して、新たな一週の歩みを始めようではありませんか。