top of page

「母に贈る花束」 [創世記連講44]

  • 総員伝道礼拝
  • 2020年5月3日
  • 読了時間: 5分

聖 書:創世記30 章14〜24 節

専門家たちによると「恋なすび」は、小さな薄紫の花を咲かせたり、その根は

精力強壮剤として利用されたり、特に子どもを設けたいと望む人たちがこの時

代、服用したそうです。長男のルベンは自分のお母さんにその恋なすびをプレ

ゼントしたところからエピソードが始まります。可愛らしい花をプレゼントす

るつもりだったのか、お母さんの疲れが癒されることを期待したのか、いずれ

にしてもお母さんへの心あるプレゼントでした。

しかしラケルがそれを分けて欲しいと求めたとき、レアにとっては無邪

気な妹のおねだりではなく、夫の寵愛を独り占めした上に、子宝までも我が物

にして、レアの居場所とかすかに残る夫との結びつきさえも取り上げることば

に響いたのでしょう、レアの心が深く傷ついたのです。「夫を取って、息子の恋

なすびまで取り上げるのか。」レアが言い表せる精一杯のことばでした。

何の悪意も邪心もないのに、行き違いなのか、言葉が足りなかったのか、

そのつもりはないのに人が傷つく、思いもよらないところで怒られたり、嫌わ

れたり。そして正直に顧みますと、そこには実のところわずかに悪意が潜んで

いたり、邪心が見え隠れしていたりすると、ますます収拾がつかなくなってし

まいます。恋なすびにまつわるこの一連のもつれは、思いの外私たちの身の回

りで起こるもつれの縮図であり、私たちの手では収拾できない現実の象徴であ

るように読めるのです。

そのような現実の中で神さまがまたしても乗り出し、救い出してくださ

る。今朝のエピソードでもまた四人の赤ちゃんが誕生します。しかも再び四人

とも二人の正妻、レアとラケルから生まれる子どもたちです。

1 イッサカル:報いてくださる神さま

最初に誕生した赤ちゃんはレアからの子どもでした。かつて夫から嫌われたレ

アを顧みられた神さまは、再び心に傷を負ったレアを顧みて下さり、その傷を

十分に癒し、心の痛みに報いてくださったのです。五人目の男の子はイッサカ

ルと名付けられました。「サカル」という音は「報いる」という意味。「神は私

に報酬(サカル)をくださった」(18 節)、「息子の恋なすびで、あなたをようや

く手に入れた(サコル・サカルティカー)」(16 節)。サカルということばが繰り

返し響く段落です。私たちの日常でも繰り返し耳に響かせるべきではないかと

思います。神さまはどのような場面にあっても確かに、豊かに、繰り返し、そ

して公正に報いてくださるお方です。イッサカルという名前はそのような神さ

まを思い起こさせるものでした。

2 ゼブルン:安住

レアはさらに続けて赤ちゃんを授かります。これが神さまの報い方です。この

名前には二つの思いが込められています。一つ目の思いは神さまに対するもの

でした。「神は私に良い賜物(ゼベド)を賜った(ゼバダ)」。ゼベド、ゼバダ、

からのゼブルン。神さまからの素晴らしい賜物だと言って喜びを名前に込めた

のです。もう一つ、レアは「今度こそ夫は私を尊ぶでしょう(イ・ゼブレーン)」

と語ります。もともとは「一緒に住む」という意味で、同居するほど敬愛する、

という希望が込められている名前だと言えます。神さまに向けられた感謝と、

身の回りの現実に向けられた希望が証詞されています。これこそ私たち信仰者

の日々の姿ではないでしょうか。

3 ディナ:正義と公正の神、再び

レアはさらにもう一人今度は女の子を授かります。ディナという名前は、実の

ところダンという男の子の名前と同じ言葉から来ているのです。「神さまは正し

くさばいてくださる。私をかばってくださる。」かつてラケルをかばってくださ

った神さまはこの度、レアをかばってくださったのです。

4 ヨセフ:主は与え、取られる。

さて、神さまはいよいよラケルに心を留めなさいます。いのちの源であられる

神さまはラケルにも真実であってくださり、ラケルの召使いをとおしてではな

く、ルベンの恋なすびをとおしてでもなく、いのちを与えなさる神さまご自身

から新しいいのちを授かります。ラケルはこの男の子にヨセフという名前をつ

けます。二つの思いが込められていたことが記されています。まずは23 節。

「神は私の汚名を取り去ってくださった」取り去るは「アサフ」と発音します。

けれどもそれだけではありません。ヨセフということばの直接の意味は

実のところ「増し加える」なのです。ラケルは新しいいのちを授けてくださっ

た神さまを仰ぎ、この神さまは祝福を加えてくださるお方だと確信したのです。

「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」との祈りは彼女の貪欲

が生み出した願望ではなく、豊かに祝福をまし加えてくださる神さまに対する

信仰の現れだったのです。後に私たちは知らされますが、神さまはこの祈りに

も確かにお応えになり、もうひとりの男の子を授けてくださいます。

結び

一連の記事は29 章31 節から始まり、今朝読み終えました30 章24 節まで続き

ます。このまとまりは始まりと締めくくりに主が現れなさいます。事の顛末を、

神さまがご覧になり、治めておられることを象徴しているように読み取れます。

私たちの歩みにも錯綜する現実があるかもしれません。それでもその一部始終

を神さまはご覧になり、一つ一つに最善を果たしてくださる、そう信頼するよ

うに私たちは招かれて来たのではないでしょうか。

 
 
 

最新記事

すべて表示
「祈り抜く立派な信仰」マタイ連講[088]

聖 書:マタイ福音書15章21〜28節 舞台が大きく変わります。これまではガリラヤ湖畔ご自身の郷里で起きた出来事を追って参りました。この先はツロとシドンの地方に退いた、と記されています。これまでも「退かれた」とあるときには静まりなさることが多かったので、この度もあるいは御弟...

 
 
 

Comments


Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic

© 2016 インマヌエル金沢キリスト教会 created with Wix.com

bottom of page