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「神の豊かな賜物」[創世記連講43]

聖 書:創世記30 章1〜13 節

この辺りの記事にはいくつか⼈道的に検討をしなければならないものが含まれ

ています(重婚・奴隷制・⼥性蔑視等)。この学びではそれらに触れることはし

ませんが、それらを回避したいからでなく、あくまで創世記が伝えようとする

メッセージに集中をする、という当初のお約束を貫くためです。

今朝は妹のラケルの訴えから始まります。「私に⼦どもを下さい。でなければ、

私は死にます。」対するヤコブのことばも激しいものでした。怒りを込

めて「私が神に代われるというのか。」「胎の実をおまえに宿らせないのは神な

のだ」と⾔い放ったのです。ヤコブの怒りの理由ははっきりと分かりませんが、

彼の放ったことばは重要な真理で、創世記を貫くテーマの⼀つです。いのちを

与えなさるのは、神さまだけだという真理。創造主である神さまはいのちの源

であられる。⾁体の⽣命も、救われて与えられる永遠のいのちについても同じ

です。今朝はヤコブの妻たちの⼥奴隷を通して授けられた四⼈の⼦どもたちの

名前を通して神さまが与えてくださるいのちの豊かさに⼼を傾けましょう。

1 ダン:正義を⽣きるいのち

ビルハを通してラケルの⼦どもとして最初に誕⽣しましたダンは「正義、正し

いさばき」という意味があります。しかも疑いを晴らす、とか汚名をすすぐと

いう種類の正義が意味されています。ラケルがここで味わった神さまの正義は、

神さまが私の汚名をすすいでくださる、私をかばってくださる、というもので

した。私たちが神さまを意識して、神さまを信頼して精⼀杯歩む時、神さまは

私たちに対しても「ダン」となってくださり、私たちに対するこの世のあらゆ

る訴えに対してかばってくださるのです。

使徒パウロを通して神さまは素晴らしい聖⾔を私たちに与えられました。

「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみ

がえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちの

ために、とりなしていてくださるのです」(ロマ8章34 節)。

2 ナフタリ:戦いを導かれる主

続けてラケルはビルハをとおして男の⼦を授かりその⼦をナフタリと名付けま

す。「死に物狂いの争い」を繰り広げて勝利を得た、と⾔って名付けたと証詞を

しています。ここにも私たちの信仰⽣活の⼀つの現実が描かれています。戦い

です。私たちが真剣にイエスさまを信じる⽣き⽅を貫こうとしますと、⾃ずと

争いに巻き込まれます。世の罪や闇、汚れとの戦い、誘惑との戦い、周りの⼈

との戦いもあれば⾃分との戦い。今皆で取り組んでいますウイルスとの戦いだ

って信仰と無関係ではありません。

2

ナフタリが誕⽣したときにラケルは、戦いの末に神様から勝利を報われ

た、と感謝をしたのです。さきほど引⽤した使徒パウロの⼿紙、ローマ書8章

の続きにこのように記されています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き

離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、

危険ですか、剣ですか…しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してく

ださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

神さまは私たちにいのちを与え、圧倒的な勝利者としてくださるのです。

3 ガド:想定外の賜物

ラケルの膝の上に男の子が二人誕生したことを聞きつけた姉のレアは、自らも

女奴隷のジルパをとおして男の子を授かります。そしてその子にガドという名

前をつけます。彼らが暮らしていたハランの地域周辺で祀られていた神々の名

前にガドと似た名前のものがいくつかあるそうです。「ガデル」や「ゴディア」。

それらの名前の意味は「運」だそうです。英語で言うと「グッド・ラック」。

レアにとって思いもよらず素晴らしいプレゼントでした。でも彼女にしてみれ

ばこれはその地域で祀られている神々の名前のような「グッド・ラック」では

なかったのです。思いもよらぬ幸運なできごとは、自分の胎が閉じるまで四人

もの男の子を授けてくださった神さまからのさらなるプレゼントだったのです。

新約聖書にも同じ真理を私たちに教える聖言があります。ヤコブをとお

して神さまはこのように語っておられます。「すべての良い贈り物、またすべ

ての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るので

す。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはあり

ません。」

レアはガドを授かったときに、神さまが与えてくださるいのちは、私たちの想

像や期待を遥かに越えた素晴らしいものだと肌身に感じたのです。

4 アシェル:満ち足りる幸福

最後にレアの膝の上に誕生した二人目の男の子はアシェルと名付けられます。

通算で八人目の男の子です。彼女はこう証詞します。

「なんと幸せ(アシェル)なことでしょう。女たちは私を幸せ(アシェル)者

と言うでしょう。」もうアシェルだらけです。この幸福はガド(良い贈り物)

とはまた種類の異なる幸福です。彼女から溢れ出る幸いです。

聖書は繰り返し人を「幸い」へと招き入れます。多くの人々が親しむ詩

篇も冒頭から「幸いなことよ」という呼びかけから始まります。イエスさまも

山の上で語られた説教の冒頭で何度も繰り返し「幸いなるかな」と呼び掛けな

さいました。聖書の中にもう一人、イエスの母もレアと同じような讃美を歌い

ました。「私のたましいは主をあがめ…今から後、どの時代の人々も私を幸い

な者と呼ぶでしょう。」(ルカ1章46〜48節)

心から神さまを称え、溢れ出る喜びと幸いを証詞するマリアの姿と、アシェル

を授かったレアとが重なります。そしてその重なりの上に主にある兄弟姉妹た

ちがまた重なりますことを祈ってやみません。

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