「復活を伝える弟子たち」
聖書 ヨハネ福音書20章1〜18節
イースターを主にあって心よりお祝い申し上げます!
先週末、県内また市内の状況が一転しまして、週末の行動を控えるようにとの強い要請がされました。教会として主イエスさまの素晴らしさを証詞するために、当面は人々が集まる状況を避けて文書・音声・動画によるメッセージの配信に切り替えました。
主が十字架で死なれ、その日のうちに埋葬された翌日の安息日。その日ほど虚しい礼拝はなかっただろうと想像します。神さまが長年にわたって約束して来られた救世主を自らの手で死に追いやった、その手でどのような祈りを捧げたのだろう、と考えてしまいます。この日について「すべてが断たれ、諦めるしかありません」というコメントを最近読みましたが(『百万人の福音』2020年4月号:松村識先生)、まさにそんな日です。記録にも記憶にも残すに値することは何も起こらなかった。救い主のいない世界なんて、そんなものなのです。
しかし、その漆黒の闇は続きませんでした。主イエスはお約束された通り三日目によみがえられたのです。主に従ってきた人々は次々と墓地を訪れます。彼ら・彼女らは主イエスの死と向き合うつもりで訪れます。ところが口を塞いでいた大きな石は退けられていて、ご遺体は見当たらないのです。ヨハネの記事は弟子たちの中でもマグダラのマリアに注目するように読者を招きます。
彼女が動転し、動揺している様子が生々しく描かれています。おそらく彼女の報告が分かりづらかったのでしょう。ペテロとヨハネは自らの目で確認をするために墓地に駆け付けます。彼らも状況を観察することはできたのですが、マリア同様に混乱を禁じ得ません。イエスさまがよみがえられる約束を繰り返し語られたのに、結びつけることが出来なかったのです。それで彼らは再び墓地を離れてしまいます。しかし、マリアはそこに留まったようです。何かを期待したのでなく、足が前に進まなかったのです。そのような彼女に主イエスのよみがえりが明かされたのです。彼女は大きく変えられて墓地を立ち去ります。そして弟子たちのもとに向かったのです。
主イエスのよみがえりは決して全能の神の超越した能力を人々の見せつけるパフォーマンスではありません。まして主を貶めた人々に対する報復や恫喝でもありません。主のよみがえりは、「すべてが断たれ、諦めるしかない」現実に対して、確かな希望をもたらす光なのです。記憶にも記録にも残すに値しない歩みを脱して、いのちの力に溢れる歩みへの変貌なのです。
よみがえられた主イエスは混乱と悲しみの中に沈むマリアに、行くべきところを指差しなさいました。「わたしの兄弟たちのところ」に行くように促されます。神の御力よりもこの世のもたらす脅威に震え上がる弟子たち、主を繰り返し否んだ弟子たち、蜘蛛の子を散らすように離れてしまった彼ら、主には失望したと言って弟子たちの集まりから去っていく者たちを主は今だに「わたしの兄弟たち」とお呼びになるのです。そして主に気づきもしないマリアを名前でお呼びになる。そして「あなたには行くべきところがある」と指差しなさるのです。今最も希望を必要とする人々のところに、最も恐れと悲しみの中に沈んでいる人々のところに、最も導きを求めている人々のところに行きなさい、と主イエスはマリアを送り出されます。よみがえりの力はマリアを押し出して、主が愛された弟子たちのもとに送り出したのです。
また、マリアは弟子たちのためにメッセージを託されました。「わたしは神のもとに上る。」これには何重もの福音が込められています。神のもとに上られた主は偉大な大祭司として日々私たちのために執り成してくださることが意味されています。私たちの先駆者として一足早く神さまの豊かな御報酬を受けなさることも意味しています。また、主は私たちのために場所を用意して迎えに来られるともお約束になりました。他の福音書では天に上るときに再び弟子たちに会ってくださるとも仰せられました。今マリアにそれらのメッセージが託されたのです。
「わたしの父、あなたがたの父。わたしの神、あなたがたの神」と言われたところも心に残ります。主イエスに恵みを豊かに注がれた神さまは私たちの神さまであられる。主イエスによみがえりのいのちを与えられた方は、私たちにもいのちを与え給うお方である。主イエスを高く挙げられた神は、私たちをもやがて引き上げてくださる。そのような希望をもたらすお言葉です。
主イエスはまた「わたしにすがりついてはいけません」とも言われました。もちろんこれは、マリアを突き放すお言葉ではありません。この後ほかの弟子たちとの会話にも出て参りますが、イエスさまは信仰の新しい時代のためにマリアを備えておられるのです。目で見て、耳で聞いて、手で触れて確認する世界でなく、目で見なくても、耳で聞かなくても、手で触れなくても信じて確信する時代にこれから弟子たちは足を踏み入れていくのです。まさに私たちの時代です。マリアはそれらのメッセージを託されて弟子たちのところに遣わされたのです。
18節を読みますと、「マグダラのマリアは行って、弟子たちに『私は主を見ました』と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた」のです。よみがえられた主イエスに押し出され、途方に暮れて佇んでいたマリアは前に進む力を得たのです。携えるメッセージを得たのです。そしてこのよみがえりのいのちの力はさらに、マリアの知らせを受けた弟子たちへまるで伝染するように広まったのです。彼らもまた希望を与えられ、勇気と力を得て、目的と福音を携えて前に進み出したのです。
今年のイースターを私たちも迎えました。例年と随分異なるかたちで迎えました。そして必ずしも望ましいかたちで迎えた訳ではありません。むしろ準備していた多くのプログラムが台無しになり、それこそ「すべてが断たれ、諦めるしか」ないように、人の目には映るかもしれません。でも私たちはたたずんではいません。扉に鍵を掛けて内側に潜んではいません。力いっぱい主が生きておられることを告げ知らせ、主から力みなぎるいのちを頂き、語るべきメッセージを頂き、この1週間も前進いたしましょう!