「神の祝福、人の祝宴」[創世記連講41]
聖書 創世記29章14〜30節
私たちは年度末の忙しさの只中におり、またまもなく新年度を迎えようとしています。期待と不安の割合は人それぞれですが、緊張感を抱きながら日々を歩んでいます。加えて昨今のウイルスの報道などで普段に増してストレスがのしかかっているのではないかと案じております。事態が1日も早く終息することを祈るものです。
そのような中でヤコブの生涯を読みますことは大変な励ましになると確信しています。実家から旅立ったヤコブは道中神さまの啓示を夢で受けて、主がともに歩み、助け、導いてくださる約束を確認します。ようやく目的地に辿り着いたヤコブは早速ラバンと彼の一族に出会い、歓待を受けます。よく読むとヤコブは神の世界についても、人の社会についても弁えに欠けたところが少なからずあるのですが、神は彼との約束を果たすべく、彼の足りなさに関わらずみわざを進めなさいます。井戸を塞ぐ大きな石が転がされて、羊飼いたちが水を汲み上げる場面はそのことを象徴しているようです。受難節を歩む私たちは「大きな石が転がる」から主イエスのよみがえりの朝を連想しました。あのときも、弟子たちはまるで主イエスの預言、救いのわざの成就についてまるで悟っておらず、恐れるばかりでしたが、それでも救いの約束は完全に成就しました。
さてその続きを今朝は読みました。ラバンはヤコブをゲストとしてでなく、親族として迎えます(14節)。さらに親族だからといって甘んじることなく、彼が一族の領地で労働をするならば報酬を支払うとまで申し出ます。そして、ヤコブの方から彼の娘さんを慕っていると告白された際には縁談を前向きに受け入れ「私のところにとどまっていなさい」と招き入れます。順風満帆を絵に描いたような流れです。そのクライマックスが22節、「ラバンは、その土地の人たちをみな集めて祝宴を催した」のです。
ところがそこから様子が変わってきます。ラケルとの結婚式だと思ったのに気付けば妻となっていたのは姉のレアの方だったというのです。しかもラバンはそれが当然であるかのように振る舞い、それでもラケルをめとりたければもう7年奉公するように要求するのです。世の中うまくいかないものです。不条理な要求、身近な人の裏切り、狡猾な欺き等々。それだけではありません。ヤコブが人々の同情を得たかというと、必ずしもそうではありません。これまで散々身内を騙してきたのだから、騙されて当然。神を頼らず己の力で事を成そうとするから失敗する。霊的洞察に欠ける。そのような指摘を幾度も聞いてきました。恐らく私も一度ならずそのような説教をしたのではないかと振り返ります。ヤコブにしてみれば「ぼくは被害者だぞ」と言いたくなるかもしれません。人から正しく評価されない、言われのない中傷を受ける。これもまた見に覚えのあることでしょう。
このエピソードは決してラバンの不誠実を責めるものでなく、ましてヤコブの不足を他山の石とするものでもありません。メッセージはこれまでと一貫して変わりません。神はあらゆる状況にあってご自身の約束、祝福の誓いを果たそうとなさってみわざを進めておられるのです。そして物語の舞台裏からヤコブに確かな御助けの手を指し伸ばしてくださっている。
一つはヤコブの結婚です。14年掛かりましたが彼は結局レアともラケルとも結ばれます。しかもこの時点ではまだ明らかにされませんが、二人の妻にそれぞれジルパとビルハという召使が仕えることになります。アブラハムが仰いだ夜空の無数の星、海辺の砂が、次第に現実味を帯びてきます。
今ひとつはヤコブの愛、モチベーションです。神さまは人にやる気を与えてくださる方です。そのことを新約時代、パウロが証詞しています。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)
神さまはヤコブにラケルに対する深い愛を注がれたのです。
この短い段落に繰り返し記されているキーワードがあります。「仕える」です。6回(ヘブル語では7回)繰り返されています。しかもすべて主語はヤコブ。これは神さまからのフラグです。「ヤコブが仕える?」これはおかしい。歪んでいます。何故ならば、神さまの約束は、ヤコブが仕える、のでなく彼の兄が、彼の親族が、否諸々の国民が彼に仕えるようになる、というものでした。つまり、このエピソードは声を大にして読者に訴えているのです。「神さまのみわざはここで終わっているのではない。これからすべてがひっくり返って祝福の約束が完全に成就するから、辛抱強く読み進めるように。」私たちは招かれています。期待をして読み進めましょう。そして私たちのこれからの歩みについても、同じ期待を抱いて前に進みましょう!祝福をお祈りします。