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「井戸を塞ぐ大石を転がす」[創世記連講40]

聖書 創世記29章1〜14節

私たちは受難節の中を歩んでおります。主イエスの受難、十字架、そしてよみがえりに思いを寄せつつ、イースターを待ち望む大切な時節です。昨今の騒動のために教会の営みがある程度制限されていますが、何とかイースターにはいつも通りに祝いたいと願っております。

さて、ヤコブの物語は続きます。家から逃げるように一人旅を始め、他方ではお嫁さん探しの目的もあり、何とも焦点の定まらない、そして心細い旅を続ける中で、神さまは夢の中で現れてくださった。神の家と地上ははしごでつながっていて、天の門の前では神さまご自身がヤコブとともにあり、守ってくださると約束をなさいます。御使いたちがはしごを上り下りして、神さまのみわざを自由に進めています。彼は俄然勇気を与えられて旅を続け、ハランの野原まで辿り着きます。そこには井戸があり、羊飼いたちがその周りに集まって大きな石の蓋を転がして水を汲み取る、そんな取り決めになっていたというのです。この石を転がす話題がこの短い段落の中で3回も繰り返されるのは印象に残ります。それでそこに今朝は心を傾けました。

井戸の蓋になっている大石はだれかの思いつきや、何かの都合で勝手に開けるものではなく、羊飼いたちがみんなで集まった時に一緒に蓋を開け、中から水を汲み取り、羊たちの渇きを潤すのです。公平を期すためでしょうか、あるいはもっと単純に羊飼いの一人や二人では蓋が大きすぎてビクともしないためか。そこに集まる羊飼いたちはきちんとそのしきたりを守っていたのです。ヤコブはその辺りよく弁えていなかった様子で、日もまだ高く家畜は喉を枯らしているのだから先に蓋を転がして水を飲ませたらどうだろうか、と提案します。羊たちを気の毒に思っての優しさなのか、よく考えもしないでしきたりに縛られる羊飼いたちに斜め上から啓蒙するつもりなのか、あるいは近づいてきた羊飼いラケルに良い格好を見せたかったのか。ところが羊飼いたちは即答します。「そうはできません。」

「そうはできません。」このことばに人は何度阻まれてきたことか。他の翻訳では「そうするわけにいかないのです」となっています。信仰をもって前に進もうとすると、主から与えられた目標や幻を目指そうとすると、「そうはできません。」この世の常識が、習慣や伝統が「そうするわけにはいかない」と、環境や条件が揃わないと、または他者の悪意や不理解が「そうはできません」と妨げるかもしれません。でも、この物語は力強く私たちに、大きな石に阻まれても動揺することはない、失望することはない、と迫ってきます。石はやがて転がされる。そして水を汲み取ることになるのです。

この大きな石が退けられると、まるで何かの象徴のように物語が大きく動き始めます。出会い頭に将来の奥さんと情熱的な挨拶をします。そのままヤコブは両親から言われていたラバンの家に暖かく迎えられます。「本当に私の骨肉だ」とまで言われます。こうして旅の目的は半ば達成です。この物語には神さまが登場人物のようには現れません。御声も轟きません。でも確かな神さまのみわざは進んでいます。ちょうど私たちの日常に似ています。冬の雷のような声が響くわけではありません。プロジェクト・マッピングのように私たちの前に現れなさるわけではありません。でも神さまのみわざは粛々と進むのです。そして約束は果たされる。私たちは神さまの真実を頼って人生の旅路を続けるよう招かれているのです。

受難節の昨今、「大きな石が転がる」と聞かされるとどうしても思い出す大きな出来事があります。そう、イエスさまのお墓です。このときは主の使いが石を転がしました。それで、井戸の水どころではない、永遠のいのちが私たちに与えられるようになったのです。喉の渇きどころではない、たましいの渇き、枯渇した人生に本当の潤いが豊かに与えられる。かくして私たちの救いのみわざは実現していきます。この春も「そうはできません」と阻むあらゆるものを横目に、主イエスから目を離さずに前進致しましょう。

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