「天の門、ベテル」[創世記連講39]
聖書 創世記28章10〜22節
ヤコブの生涯の中でもドラマチックな場面の一つです。神さまとの出会い、と言えます。
逃げるようにして実家を旅立ったヤコブ、確かにその行き着く先には祝福があると約束を頂いて出発しましたが、何せひとり旅です。しかもこの先の事柄が不透明、出口の見えない逃避行でもあります。そのような中で彼は夢を見ます。ただこの夢は私たちが一般的に言う意識もうつろな中でよぎる幻想ではなく、神からの確かな語りかけでした。アブラハム、イサクと誓いを交わされた神が、今ヤコブとも同じ誓いを交わす場面です。そしてその締めくくりに、神はまるでヤコブの目を見据えなさるように「見よ」と語られて約束をなさいます。この一連の夢を見てヤコブはその場所を神の家、ベテルと名付けますが、彼のイメージの中では「天の門」が開かれていたのです。
黙示録にフィラデルフィアという教会に宛てて語られたメッセージに次のようなものがあります。
「わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙示3の8)
この時期、教会の営みが制限される中ですが、天の門と教会の扉が重なって見える素晴らしいヴィジョンです。今朝は開かれた天の門の前で語られた神の約束の聖言に耳を傾けました。4つのお約束を数えてみました(15節メインです)。
1 神さまのご同行の約束
最初の約束は「わたしはあなたとともにいて」。いつまで続くか分からない一人旅を歩み出したヤコブにとってこの一言がどれだけ慰めとなったことか、想像に難くありません。神がともにおられる、この約束はヤコブだけでなくお祖父さんのアブラハムも、父イサクもよく知っている約束でした。更に言えば、創世記をここまで読んできた私たちは、神ご自身が世界を、人をお造りになられた最初から、共にいようという御心を抱いておられたことを思い起こすことができます。
この完成が他でもない主イエスの十字架とよみがえりです。主イエスのお名前が「インマヌエル(神ともにいます)」であったこと、その主が地上を去るときに最後に弟子たちに語られたお言葉が「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28の20)
だったことも思い出されます。天の門が大きく開かれて、聞こえてきたメッセージは、第一に神のご同行でした。
2 神さまのみ守りの約束
それから続けて神は「あなたがどこへ行っても、あなたを守り」と約束なさいます。これもまたヤコブにとって大きな励ましになったことでしょう。一応行く当ては母リベカの実家、ラバン一族の領地です。しかしそこで何が待ち受けているのか、知る由もありません。好意的に受け入れられるのか、厄介者扱いされるのか、そもそも受け入れて貰えるののか、疑心暗鬼になっていたかもしれません。でも神はどこへ進むにせよ守って下さると言われたのです。
私たちもまた、よく計画を練って踏み出す旅路もあるでしょう。ヤコブのように身支度もままならぬまま飛び出さなければならないような旅立ちもあるでしょう。神さまは「あなたがどこへ行っても」あなたを守ると語りかけて下さいます。新しく1週間を踏み出すにあたって、私たちはどのようなスタートを切るでしょう。神は天の門から私たちにも「どこへ行っても、あなたを守る」と約束してくださっています。
3 連れ帰って下さる約束
私たちの福音の中で「帰る」というイメージが、実はとても大切な柱になっています。普段はあまり考えないかもしれません。それが自然です。でもお互い「帰る場所」があります。家庭が大切な人にとっては家が帰る場所、部活動にいのちをかけている中学生にとっては部員の仲間に囲まれているときが一番落ち着く。お仕事が生き甲斐だと言う方々にとっては職場が自分の居場所、と言う具合です。帰る場所。専門家は「帰属意識」と呼ぶそうです。そして多くの場合、それは一つだけではないでしょう。家庭も大事、野球やサッカーに熱心であれば、それこそワン・チーム。そして神さまは私たちにこの地の上に広がっていくことを喜ばれる。「生めよ、増えよ、地を満たせ!」
でも同時に神さまは「あなたをこの地に連れ帰る」と招いておられるのです。祝福の地、繁栄の地、約束の地に。主イエスが弟子たちに仰せられた聖言がヨハネによって記録されています。
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14の3)
これは勿論天国のことです。やがて死を越えて私たちは主のいるところに居させて頂く。ヤコブが天の門を見上げたとき、そこまで悟ったかどうかは分かりません。でも私たちは聖書を通してその約束があることを知らされています。
年がら年中天国のことばかり考えて仕事も手が付かない、というのはあまり宜しくないでしょう。私が日曜の朝天国のことばかり考えていて、礼拝の説教も忘れてしまった、では皆さまは失望されるでしょう。お互いに与えられた務めや役割に全集中、神さまが与えて下さった持ち場立場にしっかりと腰を据えて取り組みたいものです。でも、神さまはいつも「連れ帰る」、あなたには本当の居場所があるから、と私たちを招いておられること、忘れないでおきましょう。
教会はそういう意味で、よいリマインダーになります。教会の扉が開き続けることはその意味でも必要不可欠なのです。天の門を夢に見て神の約束を知ったヤコブのように、私たちも折あるごとに、ああ、神さまは私とともにいて下さるのだという気付きが与えられることが生きる上で必要です。
4 決して見捨てない
これについては恐らく詳細な説明は不要でしょう。神さまの真実さの表れです。私たちの方で躓いたり、迷ったり、振り回されたりするときも神さまは「約束したことを成し遂げるまで、決して捨てない」と語りかけてくださっています。今朝も教会の門戸は大きく開かれ(集会の数は制限されていますが)、真実なる神のお約束は力強く告げられています。
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開きました。春は近い!
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