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「祝福は次の次元へ」[創世記連講38]

聖書 創世記27:41〜28:9

今朝はいよいよヤコブの旅立ちの場面を御読みしました。

ヤコブはかつて兄から「長子の権利」を買い取り(この取引が有効かどうかは?ですが)、そしてさらにエサウに化けて祝福を全て引き継いで、あとは「時が満ちる」のを待つばかりであったはずなのです。ところが。。。

と言いますか、案の定兄エサウの逆鱗に触れ、実の兄弟に殺害されそうになります。事の深刻さを悟った母リベカはすぐにヤコブを避難させようと再び企てを練ります。名付けて「ヤコブ嫁探しの旅」。彼女は実家のラバン一族に身を寄せるようにヤコブに言いつけます。そして「しばらく」そこでほとぼりが収まるのを待つように、と。この「しばらく」ということば、翻訳によっては「数日の間」とも訳せるそうです(ダニエル11:20参照のこと)。結果的には20年も親元を離れることになりますし、リベカの死がいつなのかはっきり分からないのですが、下手をするとこの旅立ちが今生の別れとなったかもしれません。それでもヤコブは送り出されて旅立つのです。神の祝福を目指して踏み出すヤコブに信仰の在り方を学ぶことができる、そう思えてなりません。

1 逆境の只中からの旅立ち

ヤコブの旅立ちは今おさらいしましたとおり、みんなから喜ばれ、祝われての出発ではありませんでした。「お嫁さん探し」なのに、です。曲がりなりにもこんなにおめでたい目的の旅路なのですから、もう少し晴れやかな思いで出発したかったでしょう。それが理解されないどころか、悪意をむき出しにされて逃げるように出掛けることになってしまった。

 しかしこの旅は間違いなく神の祝福が次の段階に進む旅なのです。愛する伴侶が与えられ、子どもたちを授かり、その子たちがやがて一族となり、国家に発展していくのです。ヤコブの旅立ちを見て私たちは問われます。どちらの方が私たちの心を震わせるのか。目の前の逆境か、その先に輝く神さまの祝福か、と。ヤコブは静かに後者を見据えて旅立ったのです。

2 未知の世界に向けての旅立ち

ヤコブの旅立ちは逆境の中からのものであったのみならず、未知の世界に向けての旅立ちでもありました。確かに聞き覚えのある目的地です。親類ラバンの一族。かつてアブラハムがイサクの伴侶を探すためにしもべを送り込んだところです。アブラハムは念には念を入れてしもべに助言を与え、誓いを立てさせ旅の成功のための準備をしました。

 ところがヤコブの旅立ちは異なります。共通しているのは旅先だけ。今度は自分独りで向かわなければなりません。何の手ほどきも備えもなく、命からがら逃げるように踏み出します。旅の目的も今や不明瞭です。これは逃避行なのか、それとも伴侶を探す旅なのか。それでも彼は旅立ったのです。人は日々の歩みの中で度々このような節目に巡り会います。決して心地よい場面ではありません。不安や恐れ、躊躇や疑心が錯綜します。でも私たちが未だ知らない、ということは断じてその旅を取りやめる理由になってはなりません。それが信仰の踏み出しであるならば、それが神の祝福を目指しているならば。ヤコブに倣って前を進みましょう。

3 貫かれる御心に押し出された旅立ち

逆境の中で、しかも未知の世界に向けての旅立ちを、私たちが尊び彼の歩み出しに倣おうとするのは何故でしょう。それは彼がその始まりに神からの祝福の約束を捉えていたからです。3〜4節の聖言に目を止めて締めくくりましょう。

 この約束のことばは全能の神によるものだ、というのが開口一番の保証です。「能わざるところなき父なる神」が伴われる旅なのです。その神が一つ一つの誓いと約束を果たそうとなさっている。そしてその神はアブラハムのときから貫いて真実であられた。この真理を捉えて、この真理に押し出されるようにして、ヤコブは家族から送り出されたのです。

4 結び

私たちの教会は70周年を迎えました。ある意味新たなスタートを踏み出すラインに立っています。また群れにつける多くの方々がこの季節、学校や職場を始めそれぞれの持ち場立場で環境が変わり、条件が変わり、新しい歩みを始めようとしております。見通しがきかないかもしれません、準備不足だと案じておられるでしょうか。納得の行かないところがあるでしょうか。でも神は一貫して私たちを祝福しようと全能の御力をもって私たちを押し出してくださる、否ともに歩んでくださるのです。信仰を働かせ、信仰の創始者・完成者であられる主イエスを仰いで進みましょう。

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