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「祝福された野の香り」[創世記連講37]

聖書 創世記27章26〜38節

今朝からしばらく「差し迫っている危機のゆえに」(1コリント7:26)礼拝へのご参列を控えなさる方々が少なからずおられるので、ここに礼拝メッセージをいつもより詳しく書き記すことと致します。お断りですが、ここに記される「メッセージ」はあくまで金沢教会の会衆の皆さまを思い浮かべてお伝えするものです。不特定多数の読者の皆さまを想定して語るような力量もコーリングも特段ありません。宜しくお含みください。

先週読み終えた続きから今朝は読み始めました。先週は美味しい料理、今朝は野の香り。五感に訴えるような説教題ですが、先週が料理番組でなかったように今週も決してパフュームの話をするわけではありません。題目は先週に引き続き聖言の引用をそのまま取り上げました。

イサクが次世代のために祝福を長子に授ける場面。聖句には「父イサクはヤコブに、『近寄って私に〜』」と語り掛けるが、言うまでもなく父イサクは双子の兄エサウに祝福を授けているつもりなのです。今朝は特にこの事実に心を留めながら祝福の聖言を読み取らせて頂きました。イサクを通して授けられた祝福について、3つの要点に心を留めました。

1 それは神さまを源とする祝福

「主が祝福された野の香り」「神がおまえに〜」と告げられているように、そして創世記の冒頭から一貫して祝福は何であれ、神さまの世界に対する、そして人に対する唯一の御心です。その御思いは人が神に背をそむける時、神の祝福を軽んじる時でさえ変わりません。

2 それは資格のない者に対する祝福

第二に、改めて思い起こしますのは、族長イサクはエサウを祝福しているつもりだと言う点です。かつてヤコブがいくら支払ったのかは分かりませんが、あの取引が有効であるとは父イサクも母リベカも考えていないようです。知ってさえいないかもしれません。さらに言えば双子誕生の時の予言さえも、双子の一方は強くなり、他方は弱くなる。ただ強い方が弱い方に仕えるようになる、と言う予言に読める、と学びました。例えば弟ヤコブの方が兄エサウより強くなったならば、仕えるのはヤコブの方だったのかもしれない、と言うことです。つまりは、ヤコブは神さまの前に何か祝福を受ける資格らしいものは持ち合わせていないのです。それでも彼は父が身震いし、兄が声の限りに激しく泣き叫ぶほど、本当に祝福を手にしたのです。

3 それは割引なしの祝福

最後に、資格がなくても頂けると言われると私たちは「何が差っ引かれるのだろうか」と疑心暗鬼になります。何故ならばそれは世の常だからです。ところが神さまの祝福はそこが異なります。エサウが「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか」と迫ったとき、父は「わが子よ、おまえのためには、一体何ができるだろうか」としか返事をすることができなかったのです。つまり祝福は微塵も余すところなくヤコブに授けられたのです。割引なしの祝福です。

さて、この祝福の特色は全てそのまま主イエスによって実現した罪からの救いに当てはまります。実に神さまからの最大の祝福こそが主イエスによる救いなのです。それは神さまの慈愛と正義を源とした救い、資格のない私たちに与えられる救い、そしてそれは完全な救いです。私たちは、ちょうどヤコブが父イサクの前に立って祝福を求めたように、神さまの御前に立ち、救いを求めれば、赦しを求めれば与えられるのです。

 一つだけイサクの祝福と主イエスによる救いとの間に大きな違いがあります。イサクの祝福は唯一無二のものでした。ヤコブに授けてしまったら、もう何も残らない。しかし主イエスによる救いは豊かに備えられています。誰にでも与えられる祝福なのです。ぜひこの救いを、祝福をご自身のものとなさってください。次週礼拝でまたお会い致しましょう。

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