「井戸を掘り、名を付け〜百倍の祝福」[創世記連講34]
聖書 創世記26:1〜18
お久しぶりです、創世記!!
ほぼ一年ぶりになります。ヘブル書の学びは旧約聖書とのリンクも深く、モーセ五書からの引用も数多くありました。何となく古巣に戻ってくるような懐かしさを感じながら連講の再開です。
26章は章の数から言ってちょうど折り返し地点に差し掛かるだけでなく、歴史の流れから言っても族長アブラハムの死を記録する章でもありますから、一休みをするにはちょうどよい場面かなと思った次第です。最後に学びましたのは、エサウが神の祝福の象徴「長子の権利」を軽んじたという何とも後味の悪い戒めでした。これも翻せば弟兄弟のヤコブは逆に神の祝福を野心的に求めたエピソードととることができます。創世記の前半を貫くテーマの一つは「神は人を祝福しようと望んでおられる」ということ。その祝福を人がどのように受け止めるか、どのように応答するかに関心を寄せてきました。
26章は大まかなお話をすればエサウとヤコブの父イサクの物語です。もしかすると時間も少しさかのぼって、双子の兄弟もまだ誕生していなかったかもしれません(そうでなければ、相続権を争うほどの双子の男児がドタバタする脇で「リベカは私の妻ではなく妹です」なんて偽りがアビメレク王に通じたかどうか)。教会学校の子どもたちに聞けば多分「井戸掘りイサクのお話」と教えてくれるでしょうね(それで今朝の説教題)。
ただ、井戸掘りの話に入る前に少し時間をとっていくつかのエピソードが記されています。今朝はその辺りを一緒に読みました。神が父アブラハムと同じようにイサクを祝福する、というお約束を結ばれた場面から始まります。「祝福」のテーマはイサクの生涯にも継続しています。前述の妻を妹と偽る場面も、アブラハムが少なくとも二度、一族の存続をかけて取った手段でしたから、そのときのメッセージを思い返しながら読み進めることができました。結びにイサクがその年百倍の収穫を得た話があり、彼がすぐに現住人のペリシテ人から妬まれるほど裕福になったことが記録されます。
その妬みに駆られて、イサク一族に属する井戸が片っ端から塞がれていく。でもここからが反撃。彼は父アブラハムの井戸を一つずつ掘り返していきます。そして父が付けた名前をそのまま再びそれぞれの井戸につけていくのです。「名をつける」でふとよぎったのは天地創造の一幕、神がアダムの前に創造された獣や鳥を連れて来られたときに、アダムが一つ一つに名前をつけたところ。神の御手のわざを目の当たりにして、それに名前をつける。これは人に与えられた務めではないだろうか(5節)。私たちは日々の生活の中で神の恵みを受け、祝福を受け、導きを得て進みます。その神体験に私たちのことばで名前をつける、証詞をすることが私たちの神への務めを果たすことではないだろうか。そんなことを皆さんで考えて礼拝を御献げしました。
来週からまたしばらく創世記を学びます。ぜひ御加わりください。