「平和の神が御心を行わせ」[ヘブル書連講33]
聖書 ヘブル13:18〜25
いよいよ最後の段落まで辿り着きましたぁ!そして最後まで素晴らしい説教です。この説教者もまた他の聖徒たちや教会指導者たち同様、祈られる大切さと幸いを弁えていますね。それにしても、この広大な説教を書き綴っておいて「手短に書いたのです」jはないでしょう!ローマ書に続く長さ、内容だった一年丁寧に読んでもまだまだ汲み取っていない真理や恵みが埋没している手紙ですよ。まあ、でも彼にしてみればまだまだ書き足りない感はあったのでしょうね。
平和の神と主イエスさまを重ねる秀逸な「羊飼いイメージ」はどうお話したら伝わるのか、悩まされました。「主イエスを、死者の中から導き出された平和の神。」ヘブル書で平和といえば主イエスのモデルになっているメルキセデク、「サレム(=平和)の王」。ね?リンクしているでしょう。
それから、「導き出された」、これは実は旧約聖書(ひいては聖書全体)を見ても特定のイメージのためだけに使われている言い回しなんです(多分間違いない)。それはモーセが(あるいは神ご自身が)イスラエルの民をエジプトの苦しみから救い出した出来事を表すときにだけ使われている「用語」。それをここに持ってきましたよ。イスラエルの民をエジプトから導き出した羊飼いのようなモーセ、からの…死の世界でも導き出す羊飼い、そう!ダビデが詠った羊飼いへのリンクです。この説教者旧約聖書を縦横無尽に駆け巡り、自由に引用しながらメッセージを語ってきましたが、やっぱり詩篇23篇に触れずに終わることはできなかったのではないでしょうか。そうなると、またしても「大牧者」である主イエスと、その大牧者を「導き出す」羊飼い、平和の神ご自身とがリンク!
ただ、ここにはもう一つ大切なリンク(?)があります。それは「羊」です。ちょうど羊飼いのダビデ自身が自らを主の前に羊だと歌っているように、イエスさまもまた大牧者でありながら、やはり羊なのです。ただここからがこの説教者の秀逸な洞察。ダビデは緑の牧場で草を食べ、憩いのみぎわで渇きを癒す羊ですが、主イエスは(先週の説教で読みましたように)祭壇の上でいけにえとなって血を流す、傷なく汚れない羊なのです。
「イエスから目を離さないでいなさい」と招かれる私たち、いろいろな主イエスを仰がせて頂きましたが、最後は私たちのために血を流されたいけにえの羊。そうやって静かにこの説教は締めくくられるのです。
次週、総括でもう一回だけヘブル書から学びます。是非ご来会ください!