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「共に住まわれた神」[待降節②]

聖書:ヨハネ1章1〜18節

今年は使徒ヨハネの文書からクリスマス・アドベントの語り掛けを頂こうと講壇を準備しています。ペテロが「一番弟子」を主張したかどうかは分かりませんが、「主に愛された弟子」だと自覚したのがこのヨハネ。福音書を読むと少なくとも彼は最後まで主の十字架の足元にとどまったようですね。先週はこの福音書の軸となるような聖言、多くの人々は聖書全体の軸となる聖言だと断言しますが、3章16節に心を傾けました。改めて神さまに愛される幸いを味わったことです。

 今朝はその福音書の冒頭に戻りました。ことば、いのち、ひかり。大きなテーマが矢継ぎ早に登場する段落です。そういった中、ヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と切り出します。クリスマスの出来事を神が人と共に住む、という側面から切り込みます。考えてみれば私たちの神さまは最初からそのような方でした。エデンの園でも神さまとアダム、エバの仲睦まじい姿が描かれています。「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩きまわられる音を聞いた」(創世記3章8節)。神さまはアダムとエバを散歩にお誘いになっておられるように見受けられます(ちょっとメルヘンチック過ぎますか?)。その後罪のためにこの仲は著しく破壊されてしまいますが、神さまの方から何とかして、その隔たりを破壊しようと試みられます。バベルの塔の事件も、ノアの洪水も、ある意味族長たち(アブラハム、イサク、ヤコブたち)との関わりもそのような神さまの御思いの表れではなかったでしょうか。モーセの時代にこの御思いは如実に現実味を帯びます。そう、幕屋の作成で聖所・至聖所の設計図を渡したのはまさに、「共に住む神」のアピールではなかっただろうか。約束の地に到達してもはや幕屋も役割を果たしてたたむというときにも、ダビデ・ソロモン親子にインスピレーションを与えなさり、エルサレムに神殿を建立させなさる。神さまの御臨在を象徴する建物です。しかし、人が産み出すものはどれも朽ちます。絢爛豪華な神殿も然り。ところが、神さまは驚くような方法でご自身の御思いを果たしなさった。イエスさまを文字通り人々と共に住まわせなさった。クリスマスは何よりも、神さまが私たちと共に住まおうとなさる御思いの究極の表れ、そう思って今年のクリスマスを御過ごしになってみてはどうでしょう?

 皆さまのご来会を心待ちに致しております。

夜な夜な妻の目を盗んで講壇のキャンドルに明かりを灯してみました。あまりうまく撮れませんでしたが、雰囲気はあると思います!来週は3本目に火が点ります。

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