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「見よ。わたしは新しい事をする。」元旦礼拝2016

 昨年は、教会の年頭のみことばとして、ローマ人への手紙6章13節の「生かされた者として、あなたがた自身と、その手足を義の器として神にささげなさい」とのみことばを頂き、このみことばに支えられ、このみことばに書かれていることを目指して歩んで参りました。一人ひとり、その結果を、結実を刈り取らせて頂いていることと思います。

 さて、今年、2016年は、イザヤ書43章19節のみことばが、私の心を捕らえて離れませんでしたので、選ばせて頂きました。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」イザヤ書43:19

 特に、前半の「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」という個所に注目したいと思います。

 一年経ちますと、個人的にも、公のことでも、いわゆる、マンネリ化の傾向に陥りやすいと思います。慣れから来ると思います。同じことを、毎日のように繰り返していますと、新鮮さが失われてくることは、どの世界でもありますし、どなたもが経験しておられると思います。

 そのようなときに、新しい刺激を求めたくなることがあるでしょう。でも、だからと言って、神さまの道から離れるような、御心には沿わないようなことに手を出すことは出来ません。

 聖書のみことばを、毎日、毎朝、読んでおられる皆さま方です。ただ、今日の聖書通読の個所は、読み終えましたということで、済んだことにしないことが大切だと思います。読んでいきますと、次の章も、その次の章も、読んでしまうという、吸い込まれるような経験をしておられる人もおられるかも知れません。

 マンネリ化しないように、いつでも、その日その日の聖書通読の個所から、「ピカ-ッ!」と光るような「みことば」を与えて欲しいと願って読んでおられるかも知れません。

 しかし、「ピカ-ッ!」と光るようなみことばでなくても、自分の心に、ぐいぐいと食い込むように、心に刻まれるように入ってくるみことばに出会うことがあると思います。ゆっくりと味わいながら、祈りつつ読んで参りますと、必ず、そのようなみことばに出会うと思います。

 そして、そのみことばの個所を赤鉛筆などで、傍線を引いたりします。同じ聖書を毎日、そのようにして読んで参りますと、聖書が、いつの間にか、真っ赤に染まってしまうこともあるでしょう。

 私が献身する前は、何年かに一度は、まっさらな聖書を買って、使い始めますが、数年経ちますと、また、同じように真っ赤になってしまいました。

 ですから、今は、タブレットで、毎日、聖書を読んでおりますし、同じタブレットに、礼拝などのメッセージの(一太郎からPDFファイルに変換した)原稿を入れて使っています。あとから、手書きで、メモなどを書き込むことが出来ますので、とても便利です。

 それは兎も角としましても、もっともっと、聖書のみことばに親しみ、可能ならば、特定のみことばを覚え、聖句暗唱大会などがありましたら、短いところでも長い個所でも、クリスマスの時になどに、披露して頂けたら、私たちも励ましになるかと思います。私の出身の板橋教会には、そのような年配の方々が何人かおられました。

 とにかく、大切で必要なことは、聖書のみことばを尊び、可能ならば、少しでも覚えたいと思います。そうしますと、ひょいとした、危機に直面したときなど、その状況に相応しいみことばを思い起こして、神さまに支えて頂けるということを経験することが出来ると思います。

 さて、先ほども申し上げましたが、今年は、2016年は、イザヤ書43章19節のみことばの前半を、教会の年頭のみことばとして頂きました。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」イザヤ書43:19前半

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」イザヤ書43:19

 神さまは、この年、私たちの教会に、どのようなすばらしいことをしようとしておられるのでしょうか。19節の後半を見逃してはならないと思います。「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」と約束されています。「荒野に道」「荒地に川」などということは、常識的には考えられないことです。

 しかし、私たちの神さまは、「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」と言っておられます。今朝は、このみことばから、考えて見たいと思います。

(1)先ず、神さまは、ここにいる私たち一人ひとりにも、私たちの教会にも、この年、金沢教会と、皆さま方を通して、「新しい事」をしようとしておられます。私たちの神さまは、その御意志を、お持ちになっておられます。

 「新しい事」とは、どのような意味での「新しさ」でしょうか。目に見える新しさだけではないと思います。計画的な新しさだけでもないと思います。新しい予定を組むというだけでもないと思います。一人ひとりの心と生活における「人格的で霊的な新しさ 」かも知れません。

 皆さま方が、ご自分の心と生活の中で、明らかに、何らかの「変化」を感じるという意味での新鮮さであるかも知れません。私たちの神さまは、私たち一人ひとりに「新鮮ないのちの息吹き」を吹き込もうとしておられるに違いありません。

 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」のです。

(2)その時は、「わたしは新しい事をする」その時は、いつなのでしょうか。「今」です。「今」なのです。「今、もうそれが起ころうとしている。」(19節)。起こる寸前なのです。

 今、神さまは、私たちのために、腰を半分上げて、中腰になって、起ち上がりつつあられます。神さまは肉眼で見える方ではありませんが、想像してみたいと思います。そのお姿を、頭の中で描いてみたいと思います。

 自動車で言えば、エンジンをかけてアイドリング状態から、アクセルを踏んで、エンジンの回転数が上がりエンジンの音が変わった状態でしょうか。飛行機で言えば、滑走路を滑るように走りながら、少し機首が、持ち上がった状態かも知れません。

 「今、もうそれが起ころうとしている。」(19節)

 私たち一人ひとりのクリスチャン生涯において、「今までにはなかったほどの変化 」が、心の動きにおいても感じ始めているということが起こりうるのではないでしょうか。すでに、そのようなことを何度か経験しておられる方々も、おられるかも知れません。

 今まで、二つのことを取り上げました。

(1)先ず、神さまは、この年、金沢教会と、皆さま方を通して、「新しい事」をしようとしておられます。その御意志を、お持ちになっておられます。

(2)その時は、いつであるか。「今」です。「今なのです。「今、もうそれが起ころうとしている。」(19節)。起こる寸前なのです。

(3)では、「起ころうとしている」そのことは、どのようなことなのでしょうか。あまりにも、具体的です。三つ目として、19節の後半をご覧頂きたいと思います。「あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

 イスラエルの国があるパレスチナ地方は、砂漠地帯です。飲み水や動物に飲ませる水を手に入れることが難しいのです。しばしば、水争いが起きたことでしょう。井戸を掘っても埋められてしまったり、掘り起こしたり、全く新しいところに新しい井戸を掘ったりしました。

 でも、神さまは、19節を見ますと、「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」と約束して下さっておられます。

 「当然、知っているでしょう」と言わんばかりです。「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」と。「間違いなく、こうしようとしているんです。今、し始めるところなんです。」と、神さまは、仰っておられます。

 ひょっとしたら、私たちが、神さまから離れているならば、離れ続けているならば、私たちの人生も、「荒野」であったり、「荒れ地」となってしまっているでしょう。

 何も、イスラエル地方やアフリカの砂漠ではなくても、水資源が一杯ある私たちの心の中も、神さまから離れてしまうならば、「荒野」や「荒れ地」になってしまいます。時間の問題です。パサパサの砂漠のような人生、イェスさまによる恵みの潤いのない人生になってしまうでしょう。

 聖書を読まない日が長く続きますと、心の中に潤いが失われて、パサパサになってしまっていることを感じたことは、なかったでしょうか。砂漠地帯になってしまっているのです。そうすると、心と生活は、バサバサになり、ついには、ガサガサになっしまいます。

 そのような砂漠地帯の私たちの心の中にも、神さまは、「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」と仰っておられるのです。

(1) この年、私たちは、神さまがしようとしておられる「新しい事」を目指したいと思います。

(2) そして、この新しい年、神さまの御心に沿う「新しい事」を、志したいと思います。

(3) その志しに従って、一人ひとりの能力と賜物に応じて、「新しい事」を実現可能とする行動を起こしたい と思います。

 「見よ。わたしは新しい事をする。 」と仰っておられるのですから、その神さまのお約束を信じて、神さまの志(こころざし)を私の志(こころざし)としたいと思います。その実現の道に沿うように、歩み、生活したいと思います。

 この2016年、私たちは、この「見よ。わたしは新しい事をする。 」とのみことばを握らせて頂いて、私たちの救い主イェスさまに、このみことばの約束が、事実となるように、大いに期待し求めて参りたいと思います。

 この年も、神さまの志を、私の志としたいと思います。

 一人ひとり、聖書の中から、年頭のみことばを頂いて、新しく進発したいと思います。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」イザヤ書43:19

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